第十二章 / わたしが千里と遊んでいたら、あっという間に日が暮れる
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いつまでも続くかと思われた大きな揺れは、一週間前と同じように、前触れもなくぴたりと止まった。眩い光も薄れて、粗末な倉庫がたちまち夕闇へと沈んでいく。
風の音ばかりが、やけにうるさく聴こえていた。
「……挨拶とか、よかったの」
落ち着いた声が降ってきたので、見なくとも千里が「還った」のだとわかる。なにも言えずに頷いた。ありえないことが起こったあとなのに、落ち着いているのはなぜだろう。二度目だから、だろうか。それとも、先輩のつめたい指先とかすかな吐息だけが、現実感をもってわたしをつなぎとめているからかもしれない。
……ぼんやりと浸っていられたのはそこまでだった。
現実感がありすぎる。じわじわと、別の意味で顔が熱くなってくる。
わたし今、先輩と、手、つないでる。
手がさっきよりひやりとして感じられるのは、わたし側の体温が上がったせいだろう。足先をもだもださせながら、空いたほうの手で叫びだしそうな口を覆う。
どうしよう。
いくところまで、声、ぜんぶ聞かれた。
おちんちんでいったときの顔、千里ですら見ていないのに、先輩には真正面から見られてしまった。一番だらしない顔まで、……ぜんぶ、見せちゃったんだ。
ううぅ、今さらだけどありえない。恥ずかしい恥ずかしいありえない。茹りすぎて顔があげられない。
こもった熱を隠すように、肩を縮めて息を殺す。とはいえ下半身が気持ち悪い。あんなにびしょびしょにして、下着も履かずにいるのだから当たり前だ。マットの染みもかなり広がっているだろう。証拠隠滅で裏返しておくべきかも、などとしょうのないことを考えていると、先輩の指からゆっくりと力が抜けた。……助かった。
わたしもやや遅れて、マットの縫い目がどうかこうか見えるくらいの薄暗がりのなか、気だるいからだをゆるり起こした。
こぷりと、おなかの奥から粘つく温水が垂れてくる。美しい獣の残滓だ。
打ち捨てられた体育倉庫には、そよ風だけがざわめいていた。
賑やかだった一週間が、嘘のように。
ほつれた髪を耳にかけて明かりとりの小窓を仰いだ。夕暮れ色の雲が、ガラスの奥で風に吹かれて横切っていく。小枝の影絵が踊っている。汗まみれの夏服ではカーディガンを羽織っていても肌寒い。
冬子先輩はわたしから離れたあと、改めて定位置、つまり六段跳び箱に座り直したらしい。まもなくかちりと宙で炎が揺れて、赤い蛍が煙を引いた。
黒髪が頬を流れて、口元が緩む。
わかっている。
本当なら、先輩との約束がある以上、すぐにでも立ち去らなくてはいけない。
でも、とりあえず汗と精液でぐちゃぐちゃになった下半身を拭いて、濡れているとはいえショーツを身につけなければならない。次第に目も慣れてきたので、窓明かりを頼りにぐるりマットを見渡してみる。
ところが。
「あれ?」
見逃したのかと、もう一度ゆっくり首を巡らせてみる。目当てのものがどこにもない。
念のために、ポケットから携帯端末を取り出して壁の隅まで照らしてみる。後ろ側には、なにもない。壁際にも、ない。マットの端には、お弁当箱と水筒を入れた通学鞄がある。終わり。以上。
濡れた下着を二枚包んだ、青いタオルが、どこにもない。千里が拝んでいた壁際あたりに畳んで置いておいたはずなのに――
「うそ、えっ」
え、あれ、ちょっと。まさか千里が還るとき、ぱんつも一緒に異界に連れていかれちゃった、なんてこと……、ない、よね……?
否定しきれず、全身から血の気が引いた。這いつくばって必死でマットの隅まで手探りで探した、けれど、ない。どうしようどうしよう。このまま帰宅とか、桧山香緒花が社会的に終わってしまう。
床に落ちているのかも、と端っこまで這ってきたとき。ふっと鼻先で懐かしい香りがして、目を上げた。赤い蛍がゆらり迷って、煙をなびかせている。
そこはちょうど、跳び箱の前だった。
「なーに。どしたの、香緒花」
膝に頬杖をついたまま先輩は訊ねた。泥跳ね跡のあるスニーカーがぷらぷら揺れる。
「あ、あの、冬子先輩! どこかで青いタオル、見てませんか」
「え、あれあんたのなの?」
思い当たるところがあるらしい。先輩は真面目に驚いてから、記憶を探るように沈黙し、
「消えたね。光と一緒に」
残酷な証言を淡々と落としてくれた。
ああああぁぁ。だめだ。終わった。
両手をついて崩れ落ちると、冬子先輩が気の毒そうにわたしを見た。
「なに、大事なもの?」
「あ、う、その………、」
ごにょごにょと「下着」に相当する単語を伝えると、先輩は軽く眉をあげた。なんだか笑うのを堪えているように見える。じとっと見つめていると、ついに軽く吹き出された。……ひどい。
「はは、ごめんごめん。でもほら。もう暗いし、スカートも丈伸ばせばそうそう見えないんじゃない。そのまま帰れば」
「そんなぁ、無理ですよ」
うう、情けない。意味もなくスカートを押さえてみる。濡れているから余計にすうすうする。先輩はわたしの様子に目を眇めて、形の良いつま先をぶらつかせた。
「いいじゃん。見られるの好きなんでしょ」
「う……。冬子先輩、意地悪ですね」
「そうだよ」
静かな、肯定が深くて、返す言葉を失った。
先輩は膝元に視線を落として、携帯灰皿に灰を捨てている。
「意地悪だよ。もう、わかってるよね」
わたしは、頼りなく先輩を見つめたまま、動けない。
答える言葉を探して、見つからなくて、手のなかでスカートがくしゃりと皴になる。
「だからさ。もう……あたしのことは、忘れなよ」
冬子先輩は、掌の箱に火の粉を落とすみたいに、ぽつりと呟いた。