目次

千里の裾野

プロローグ
1
第一章
1 / 2 / 3
第二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6
第三章
1
第四章
1/ 2
第五章
1
第六章
1
第七章
1 / 2 / 3
第八章
1 / 2 / 3 / 4 / 5
第九章
1 / 2 / 3 / 4
第十章
1
第十一章
1 / 2 / 3 / 4
第十二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8
エピローグ
1(完)

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第四章 / わたしは千里の餌づけを始める

 
2

 繰り返しになるけれど。わたしは、断り方を不得手にしている。だからといって、なにを頼まれても一切拒まないという わけじゃない。
 夏休み、初めての彼氏と付き合い始めて、一ヶ月と半の頃。
 プールの帰りだから、夏祭りだから、花火大会だから。薄着でしっとり汗ばんだからだを、なにかと理由をつけて触られて、結局拒みきれずに最後までいってしまった。
 もちろん、一生に一度の初めてを受け入れた理由は断りづらかったから、だけではなくて。機会を逃して周りに遅れたくなかったとか、未知の日々と真夏の勢いに酔っていたとか、……からだからでも男を好きになってしまえば、いっそ先輩を思い切れるのじゃないか、とか。いろいろあった。どれもあまり褒められた理由じゃないと思うけれど。
 そのせいだろうか。どんなにからだが勝手に男を学んでも、心はついてこなかった。積極さを求められるたび、かき氷の紙コップ越しに伝わるような愚鈍さで、彼氏の好意はわたしの心をすみやかに確実に冷やしていった。だから、行為はいつでもされるがままで、わたしからとの求めには愛想笑いに言葉を濁して避けていた。そして、結局一度も、たとえ嘘でも彼氏に「好き」とは告げられなかった。
 こんなの「拒んだ」なんて言えないのかもしれない。付き合う前の一番最初に嘘をついた。なのに、シーツの上でまで嘘をつき通せなかった。わたしが途方もない馬鹿だとわかった、それだけのことだった。

 雨の降りそうで降らない翌日の放課後。目の前で、今日も、短く濃密な自慰が終わった。
「んふぁっ……ぁ、ぁ。んは、ふ……っ」
 千里は絶頂の余韻に浸って肩で息をしながら膝の内側に両手をついて、ぺたりと座り込んでいる。身をよじるたびに汗ばむ羽織の襟元で、りんと金の鈴が歌う。少年とは思えない幼い色香が目の毒だ。
 わたしはそっと顔を伏せた。目の前で萎えつつあるものへの強い興味と欲求を、ひたひたと水位の上昇していく性感を、上手に逃すことができない。十分程度のひとときで、わたしのからだはまたも火照りを持て余して知らない脱皮をしようとしている。どうすればいいのかわからない。
 理性はちゃんと、今もわたしに警告するのをやめてない。ああして心に反する相手に、からだを許した結果が夏の終わりの虚無感なのじゃなかったか。そう、言い聞かせているはずなのに。
 もうずっと会えていないから。挨拶も名前を発音してもらうことすら叶わないから。恋は忘れて欲望にからだを任せればいいと、たとえ想いが報われたところでどうしたって女同士では届かない部分を満たすことは罪にならないだろうと、わたしじゃないわたしが柔らかな心の弱みに毒を流そうとしている。快楽を知ったばかりの千里は夢中で、きっとわたしが誘えば同じように男女の行為に夢中になるだろう。わたしの未熟な好奇心と欲望が、胸の奥で悪魔みたいに囁き続ける。
 天使と悪魔の囁きなんて、フィクションでしか見たことのない葛藤がいまわたしの中で現実として争いを始めている。それでも、まだまだ天使の方が優勢だ。どうにかこうにか、だけれども。
 立ち上がって、振り切るようにひとつ呼吸し、千里を見ずに背を向ける。
「ご。ごめん、そろそろ時間だから。帰るね」
「え、あ、すみませんカオカさま、しばし」
 だというのに呼び止められた。なんとか表情を取り繕うと、おそるおそる振り返る。そして目を見開いた。千里がなぜか、とてもすまなそうに耳を垂れていた。尻尾も耳もしょんぼりと下を向いている。
 わたし、千里になにかしてしまっただろうか。あまり知られたくない願望を、読みとられてしまったわけじゃない……と思いたい。この子の正体がさとりの妖怪だったりしたらどうしよう。
 戸惑ううわたしを一度上目遣いでちらと見てから、千里はゆっくりと、深く静かに頭を下げた。
「カオカさま、申し訳ありませんでした。……その。昨日も今日も、ぼく、夢中で、カオカさまのご命令を無視してしまいました。カオカさまはお咎めなくお許しくださったのに、それに甘えて今日も同じことをしてしまうなんて」
 唇を噛んで膝上で小さな拳を握る。ふくふくの頬が桜色に染まっている。
「やめるように仰っていたのに、最初は気がつかなくて。昨日、寝る前にようやく気がついて今日こそとは思っていたのに、また止められなかったんです。あ……あんまり、その、気持ちよくて。すみません……」
 なんだ。一応聞こえていたんだ。土下座でもしそうな恐縮っぷりに、逆に拍子抜けして苦笑した。
「そんなの。謝らなくてもいいよ」
 あまり深刻にされても、気後れがする。どちらかというと、わたしの方が後ろめたいことばかり考えているのだし。
 だというのに千里は首をぶんぶん振ると、きっとわたしを睨みあげた。クリンとした瞳、げっ歯類を連想させる膨らんだ頬。悪いけど迫力がない。
「よっ、よくありません。嫌なら嫌と、お好きなようにはっきりとお命じください。ぼくには、遠慮なんてご無用です。そうする権利が、カオカさまにはあるんですから」
 そ、そうなのかな。首を傾げる。まあ、理屈はよくわからないけど気持ちは嬉しい。
 行き場のなかったもやもやが和んだ心に溶けこんで、すうと手足の先までしみとおる。ちょっぴり元気が出た。素直な千里につられたのか、お礼がてらにぽろりと本音がこぼれてしまう。
「ありがと。でも、多分、千里のいうようにはできないよ。あ、ううん、千里のせいじゃない。泣かないで泣かないで。わたしの心の問題なの。……情けないんだけど、昔から断るのが苦手なんだ。あんまりやりたくないなって、思ってても、嫌われるのが怖くって頷いちゃうの。いいことじゃないって、わかってるのに、だめだね」
「ぼくも、です」
 千里が答えた。
「ぼくもですよ。カオカさまよりもっと、きっと気が弱くてだめなんです」
 眉を八の字にして、耳を横へ倒して、弱弱しく微笑む。
「カオカさまのお気持ち、わかります。でも、だったら、なおさらです。ぼくにだけはいつでも、どんなときでも、嫌なことはお断りしてください。嫌いになったりしません。こんなことで僅かなりともご恩をお返しできるなら、いくらでも。短い間ですが、ぼく相手にたくさん、『嫌だ』の練習、してください」
 力の抜けた手のひらにはまだ、一昨日に柔らかな髪を撫ぜた感触が残っていて。薄い光を片頬に湛え、まっすぐにこちらを見据えて微笑む異界の少年の姿は、わたしの中に忘れがたい印象を残して、きっと永遠に消えることはないのだろうと思った。
「あ、……ありがと」
 心を打たれて、予期しない感情に戸惑いながら、わたしはなんとも間抜けな返答をした。
「えっと、じゃあ、あの、ごめん。明日は忙しくて、ここに顔を見せることができるかわからないの。あ、でも食事だけでもできればなんとか持ってくるね」
「ふふ。カオカさま優しいなぁ」
 千里は初めて、仕方ないなあとでもいうような、すごく男の子っぽい笑い方をした。みぞおちあたりが、熱砂を踏んだ後の火傷みたいに、じんと疼く。さっきまで戸惑っていた感覚と違う、先輩を想う時のどうしようもない切なさとも違う、蜂蜜や手作りジャムみたいな柔らかい甘さだった。
 照れ隠しのように、話題を変える。
「今日はもう、お腹すいてない? 持ってきてるパンで足りてる?」
「は、」
 一瞬、違和感を覚えそうで覚えない程度に軽く吃ってから。千里は笑った。
「はい。明日も、お持ちいただかずとも大丈夫ですよ」
「そうなの? じゃあ明日、じゃなくて、明後日、またね」
「はい。……また、お待ちしております」
 囁くように顔を赤らめ頷いて、千里は閉まる扉の向こうで微笑みながら尻尾と手を軽やかに振っていた。

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