目次

千里の裾野

プロローグ
1
第一章
1 / 2 / 3
第二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6
第三章
1
第四章
1/ 2
第五章
1
第六章
1
第七章
1 / 2 / 3
第八章
1 / 2 / 3 / 4 / 5
第九章
1 / 2 / 3 / 4
第十章
1
第十一章
1 / 2 / 3 / 4
第十二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8
エピローグ
1(完)

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第二章 / わたしは千里を拾うことにする

 
4

――『熱の治め方』と、千里は言った。

 銀の刺繍糸は薄暗がりでもよれた前垂れを淫猥に魅せ、未熟な性は呼吸に合わせて控えめに蠢いては薄布を突き上げている。それと知らなければ見目麗しい少女のような少年は、絹の肌に恥じらいを纏わせながら、もの静かにわたしの返事を待ちうけていた。
 説明には意味不明な言葉がいくつも混じっていたけれど、そのものを見せつけられて訊かれているわけで、わたしだって処女ではないし、欲求自体は薄々わかる。千里の説明をまとめると、試練前の彼は未熟で、知識がなくて生理的な現象の解消法がわからない。だからわたしに教えてほしい。ということになる。
 ……うん。あれだ。
 オのつくあれだ。つまり、平たく言うならその、自分でする性行為のことだ。意識すると熱の塊が膨れあがって喉につかえた。
「知っ、知ら、なっ」
 反射的に否定しかけて、頓狂な響きに恥じ入り口をつぐんだ。耳が熱い。声が裏返っちゃうのってどうしてこんなに居た堪れないんだろう。視線の吸いつく先から無理やりにでも目を逸らす。肺腑からゆっくりととろみの甘湯が押し上がり、こもった湿り気と混じり合う。飲み込む唾液はこくりと粘ついていた。鼓動がうるさい。
 千里の頼みはわかりやすい。中学生くらいの見た目だし、素直そうだし、純粋にただ教えてほしいだけで裏表はないと信じよう。信じたい。だから、まぶたの裏に焼きつく膨らみ、要は大きくなってしまったあれの処理方法を――と、また視界の端に映ったものに自然と意識が吸い寄せられて動揺する。千里はわたしの変化に気づいたようで、期待するように尻尾を振った。首を振る。平常心、平常心。
 経験があるとかないとか関係ない。やっぱり恥ずかしい。あと経験があるといってもあくまで相手にからだを弄らせたというだけで、男子の生理的なところについては実のところよく知らない。知りたくもなかったし、自分から積極的になれるほど彼との行為は楽しくなかった。
「カオカさま」
 わたしには自慰の経験がないけれど、知識としてのやり方は知っている。だから、存じあげませんといえば嘘になる。でも、いきなり目の前の子にそういうことを教えられるかといえば、ものすごく難しい。付き合っていたときでもまじまじと見たことも触ったこともないモノなのに、それをわたしが
「カオカさま?」
「えっ。あ、うん」
 呼び起こされて弾かれたように浮上する。千里がわたしの顔色を不安そうに窺っていた。ぎくりとする。
「ぼく、ひょっとして無理なことをお願いしてしまったんでしょうか」
 無理といえば無理だけど、そんなことをきっぱり告げられるほどわたしの心臓は強くない。
 それでも訪れた沈黙に、千里はなにかを悟ったのだろう。持ち上げた裾をそっと膝に戻しながら、小さなため息をついた。形のいい眉と三角耳が力なくへにょりと垂れる。
「……そう、ですよね。そんなにうまくいくはず、ないんですよね。鼻には自信があったんですけど、浅瀬とはいえ海ですから、ぼくの勘違いっていう、ことも」
 薄笑いで話すごとに声が潤む。わたしは唾液を飲み込んだ。あぁ、なんだか厭な予感がする。胃の中で悪い虫が蠢いている。
「狩りはすごく下手だったけど、でも、においを追いかけるのは結構得意だったから、あの、きっとカオカさまがそうだって思って、ごめ、ごめんなさ……でも、ぼく、どう、しよっ……」
「だ、大丈夫! 大丈夫だから、ちゃんと知ってるから、わたし」
 盛り上がる涙を見た瞬間、反射的に叫んでしまった。千里がはっと顔を上げる。
 一呼吸して、心の中がぐるぐるぐちゃぐちゃ混ざりだす。
 あああああ。やってしまった。悪いくせが出た。
 悔やんでももう遅い。千里が一縷の希望を瞳に湛えて信じ切った目でわたしを見てる。くりんと黒いビー玉のような瞳。期待に輝きはじめたふくふくの頬。立ちあがった飼い主に『散歩ですか』と訊いてるみたいな尾の動き。後悔先に立たずとはこのことだ。
「ほ、ほんとう……ですか? あの、ご無理でしたら、慰めで仰らなくとも」
「う、ううん」
 唸ってから、またも不安が掠める気配に気づいて唇を噛む。
 ……なんでわたしってこうなんだろう。知ってるとか。知ってるとかなに言ってんのそんなにちゃんと知らないし、なにやってんの。安請け合いして、いつも痛い目ばかりみてるのに。なにやってるんだろう。
 ほんとうに。ほんとうに、馬鹿だ。
「し、知ってる、けど、そんなに詳しくはない、から……」
 苦し紛れに予防線を張るわたしに小さく頷いて、異界の少年はほっと華やぐ笑顔になった。
「はい。ご存じのことだけでも構いません」
 濡れた杏の唇が綻び、なにか聴き取れない祈りのような調べをひとことふたこと呟いて胸の前で指を組む。続けてわたしの膝に口づけしそうなほどゆっくりと深く、髪をさらりと垂らしてお辞儀する。
「ありがとうございます。このご恩は、転海の最中は無論のこと、この千里の生涯をかけてお仕えすることによりてカオカさまに報いましょう」
 厳かな口ぶりに真摯な言葉。お辞儀もしとやかで丁寧なんだけれど。
「………尻尾…」
「はい? なにか仰いましたか」
 可愛らしく小首を傾げる仕草も控え目である。しかし、さっきから下げた頭の向こうに覗く尻尾は教えて教えて早く早く!とでも言いたげにちぎれそうなほど左右にぶんぶん揺れている。こういうのを『からだは正直』っていうのだろうか。
 なんともいえない脱力感に、わたしは小さくため息をついた。

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