目次

千里の裾野

プロローグ
1
第一章
1 / 2 / 3
第二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6
第三章
1
第四章
1/ 2
第五章
1
第六章
1
第七章
1 / 2 / 3
第八章
1 / 2 / 3 / 4 / 5
第九章
1 / 2 / 3 / 4
第十章
1
第十一章
1 / 2 / 3 / 4
第十二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8
エピローグ
1(完)

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第一章 / わたしが千里と出会う

 
2

 わたしは呆然と目の前の少女を見つめた。
 非現実的な出来事に遭遇しても、目の前の存在が圧倒的な非現実そのものだと、人は驚くよりもおかしなことを考えるようにできているらしい。
 これでも自分には厳しくしてきたつもりだ。幸いそこそこ可愛く生まれたと思うし、親の前でも教師の前でも、ある程度の身だしなみはいい子でいるための条件だった。人の目を気にするからには、(男子に付け込まれない程度に、しかしクラス内で浮かない程度に)隙がちょっぴりあるかないかくらいの見た目でいなければならないし、それを維持する努力もしている。薄く粉をはたいて眉を整えて、色つきに見えない薄色のリップクリームを引いて、少し細面の顔がちゃんと小顔に見えるように髪だって毎朝三十分かけて手入れをしている。まぁ、その、胸囲については遺伝的要素だから仕方がないとして、校則違反にならない程度に野暮ったくないスカート丈を鏡の前で研究したり、とにかく頑張ってはいるのだ。
 けれど生まれ持った魅力は、えてして凡人による小手先の努力をあざ笑うものだ。
 ふわふわの赤髪にはカラーによる傷みなんてこれっぽっちも感じさせない、しなやかで自然なツヤがある。濡れた睫毛はビューラーなんて必要なさそう。唇は潤った薄い杏色だし、肌は吸いつくようなしっとりすべすべの色白だ。可愛らしい膝から続く陰になったふとももへの曲線は一筆ですうっとなぞればこんな風に滑らかになるのだろうかとため息が漏れてしまう。
 とにかく、その娘は絶望的に可愛らしかった。
 高鳴る胸に両手を押し当て喉を鳴らし、少女をそっと覗きこむ。先ほどまで薄く光っていたマットはもう、ほのかな光が影になり、柔肌も淡い西日に照らされるばかりになっていた。
 光が薄れると同時に、現実感のない光景に、ようやく脳の処理が追いついてくる。
 何度見ても、うねる赤髪の合間から、おかしなものが生えている。うっすらと和毛の生え揃った黄な粉色の耳に、丸みのある腰から生えた、もさもさの尻尾のようなもの。服装もおかしい。着崩した牡丹柄の羽織、のような長い着物を素肌に一枚。裾の合わせ目はしどけなくひらかれた膝の間から割れて、まるで天使の涙の雫かと惑うようなかぐわしさの、汗の粒が幾筋かふとももの奥へ流れている。腰回りではだけないように結わえられた、鈴つきの飾り紐が蔦のように右ふくらはぎまで絡みついていた。
 そこまで観察してふと、なにかが引っかかった。
 些細で説明に困る、違和感。なんだろう。
 髪を押えて首を傾げるわたしの下で、不意に少女が身じろぎをした。
「っ!」
 思わず身をすくめて半歩下がる。
 もう一度おずおずと見下ろすと、うっすらと背のあたりが上下している。愛玩人形めいた美しさだけれど、彼女は間違いなく生身の人間……人間? かどうかはわからないけれど、生身の存在に違いない。
 まずい。見れば見るほどあまりにおかしな光景に、そろそろ頭がパンクしそうだ。
 追い打ちをかけるように、少女はそのままむにゃむにゃと唸りながら鼻の頭をマットに擦りつけた。見守るだけでくらくらする。
「ぅっ……ん…」
 鼻にかかった寝惚け声は思っていたよりも落ち着いた低音。幼い少女にしては低い、掠れたアルトだ。両手をマットについて、確かめるように位置を調整し、なだらかな肩を一度沈めて、四つん這いになる。うふぅ、と湿り気のある吐息を漏らしてからひとつ、大あくび。犬歯がとがっているように見えてますます気が遠くなる。
 そんなわたしの気も知らず、彼女はぺたりと座りこむと、目元をこすり寝惚け眼で周囲を見渡した。ぱちぱちと、瞬きをするたびに長い睫毛が上下する。
 やがて彼女の視線はゆらゆら揺れて、覗くわたしに焦点を合わせた。
 目が合った。緊張で喉が鳴る。純朴な瞳が、ただ目の前のわたしをじっと見つめている。どうしようどうしようどうしよう。
 永遠にも思える数秒後、謎の少女はふうっと深く息をつき、
「やったぁ……」
 と、安心したように微笑んだ。
 わたしはといえば、安心どころか大混乱で目を逸らすしかない。眠っていても息をのむほどだった美貌が、微笑みという表情を作るだけで親しみやすい魅力に変わり、どうしていいのかますますわからなくなってきた。動悸がうるさい。
「ええっと……、それじゃ」
 そんなわたしの混乱にも構わず、彼女は笑みを深くして、白魚のような指をわたしの方へ無造作に伸ばし、顔を近づけ遠慮なく吐息を寄せ――はたと止めた。恥ずかしそうになにごとか小声で言い訳し、ぺこりと軽くお辞儀して両耳ごと頭頂部を一瞬見せたあと、
「……イただキマす」
 聴き取れないほどささやかに、ごく早口で呟いた。
 え、と聞き返す間も無く、意外に強い力で再び少女はわたしの両耳脇をむんずと掴み引き寄せると、杏色のふくふくした唇でわたしの口を言葉ごと飲み込むようにふさいでいた。

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