目次

千里の裾野

プロローグ
1
第一章
1 / 2 / 3
第二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6
第三章
1
第四章
1/ 2
第五章
1
第六章
1
第七章
1 / 2 / 3
第八章
1 / 2 / 3 / 4 / 5
第九章
1 / 2 / 3 / 4
第十章
1
第十一章
1 / 2 / 3 / 4
第十二章
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8
エピローグ
1(完)

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第十二章 / わたしが千里と遊んでいたら、あっという間に日が暮れる

 
8

 息がうまくできなくて、たまらず俯いたときだった。目端がなにか、不自然なものを捉えた。跳び箱とマットの間の床に、白いものが落ちている。真っ暗な床を携帯端末のライトで照らすと、紐と布のようだった。腹這いになって手を伸ばし、拾ってみて、広げて、苦笑する。
 千里の、忘れ物だった。
 白い布に、銀糸の縫い取りのある紐のついた、和装の下着。幸い「洗濯」されてきれいになっているし、いっそこれを着けて帰ってしまおうか。我ながら自棄になっているなと思いながらも、不思議と表情が柔らかくなる。
 ああ、そうだった。
 いっぱい、この子相手に練習した言葉があったっけ。一番だめな姿までぜんぶ見られて聞かれて、あれより怖いことなんてあるだろうか。
 わたしはふんどしを丁寧に畳むと、鞄の脇に置いた。深呼吸して、もう一度、顔を上げる。薄暗いから先輩の表情がわからない。
「先輩。隣に座っても、いいですか」
 先輩は、無言で腰をずらして場所をあけてくれた。
 マットが軋む。濡れた靴下で踏む床はひんやりと冷たくて、久しぶりに先輩と並んで腰かけてみた跳び箱は、ざらざらと懐かしい肌ざわりだった。
 顔にかかる白い煙が息苦しい。制服にも、きっと繊維の奥まで染みついてしまう。帰ったら洗濯機に放り込もう。色々な意味で、洗わないともう着られない。衣替えの時期で助かった。
 お日さまは山の向こうに隠れて眠ってしまった。思ったよりも、日が沈んだあとの倉庫は暗かった。わたしたちは言葉も交わさず、空のざわめく夕暮れの底にいる。
 なんとはなしに、膝を抱えた。
 こんなところで、わたしがいなくなったあと、先輩はひとりで煙草を吸っていたのだ。そう思うと、無性に寂しい心持ちがした。
 ……と、ポケットでピロリロリーン、と携帯端末が鳴いて光った。わたしだ。
 ――ああもうこんなタイミングで、誰。
 目端で通知だけ確認して、熱心な仕事魔の生徒会長からだということだけを確認してポケットに戻す。例によってそろそろ帰るから書類の場所がどうこうとか、そういう内容でしかなかったので返信は無視だ。
 茜色が薄れて、壁までがいつしか薄墨色になっていた。先輩が、たまにそうするように明り取りの小窓のあたりをふいと見た。つられてゆっくりと視線を追う。当たり前だけれど、高さと位置が違うと、窓から見える景色も違うらしい。平均台やマットからは、空と枝振りしか見えなかった。けれどここからは、体育館の屋根越しに遠く、旧校舎の三階教室が一部、見えている。こんな時間だというのに、電気がついていた。そして、

 小さな灯りが、ふつり消えた。

 わたしは気づいた。旧校舎の三階、日曜日なのにたった今まで人がいた教室は、ひとつしかなかった。そうして、古びたカーテンに透けて見える窓際、の席は。

 ――日が暮れるよ。

 冬子先輩がそう呟いたら、わたしは、生徒会役員の桧山香緒花に戻って、生徒会室へ戻らなければならない。
 窓ガラスに映る自分の姿を横目に日々を諦め、電卓を弾く。
 暗くなるまで、いつもの席で。

「……冬子、先輩」

 隣の七分袖に、手を伸ばした。
 胸に灯るのは蛍火のような温かく切ない光だ。

「ん?」
「嫌です。忘れるなんて嫌です。わたし、……わたし、は」

 もしも、手を振り払われなかったら。わたしは寂しそうに笑うこの人と、夜へ続く道を歩こうと思う。往く先に待っているものが、千里と味わったあの快楽を啜る泉のほとりなのか、それとも別の水辺なのかはまだわからないけれど。
 わかっていることは、ひとつだけ。

 嘘つきで優等生の桧山香緒花は、優しくて意地悪な冬子先輩が、大好きだ。

 迷い犬はあるべき場所へ永遠に還ってしまったけれど。あの子と過ごした日々はきっと、水底の地層みたいなものだ。幾百幾千もの日常を降り積もらせても消えることなく、甘い感傷を伴いながらも死ぬまでわたしを支えていくのだろう。

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