第八章 / わたしは千里に「待て」を教えそびれていた
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いつ訪れても、千里は平和そうにくうくう寝息を立てている。放課後でも昨日みたいにお昼でも、今日のように朝早くても。たまたまなのかと思っていたら、どうやらこちらの世界で彼はいつでも眠いらしい。
目を擦り擦り、むにゃりとあくびをしながら愛玩犬の言うことには、ひとりでいるとからだが重くて疲れるそうだ。わたしといると、そこまででもないらしい。だから起こせば起きるのだとか。はぁ、と頷き隣に体育座りする。千里は寝ぼけて呂律がまだ怪しい。仕方ないので、熱い麦茶を水筒の蓋兼コップに注いではちょこちょこ飲んで暖をとる。
「ってことは、わたしがいなくなったら、すぐ寝てるんだ?」
「ふぁい、その……れすけど、からだに悪い熱がこもってしまうのは変わりませんので……」
「う、うん?」
相変わらずこの子の言うことはよくわからない。まあ、この子自身も理屈はわかってないのかもしれない。とまたお茶を口に含みかけて、
「忘れずに、カオカさまに教えていただいた通り頑張ってから寝てますよ」
不覚にもむせた。
そ、それは、つまりわたしを見送った後は寝る前に毎日オナ、うぅ、はい、敢えて言わなくてもいいですね。聞かなきゃよかった。お茶なしでも暖が取れそう。
ほわほわ受け答えしていた千里も、ここに来てようやく覚醒したらしい。もうひとつ伸びをしながらあくびをすると、濡れた犬が水滴を飛ばすみたいに頭をふるふる小刻みに振った。それから改めて隣のわたしに気づいたらしく、頬を染めると慌ててぺこりと頭を下げた。
「おっ、おはようございますカオカさま。なんだかお恥ずかしいところをお見せしましたようで、あのあの、お待たせいたしました」
「おはよ。待ってないよ、大丈夫」
起き抜けの美少女姿は目の保養だったしね。と考えてわたしもだいぶ気が安くなっているなぁと心の隅で苦笑する。
「よく眠れた?」
「はい! 昨日はカオカさまとずっと一緒にいられましたから……その、えへへ。カオカさまのいいにおいがいっぱいで、とってもいい夢見れました!」
……う。
まばゆいまでの直球笑顔を、至近距離で逃げ場なしに向けられる。面映ゆい。やめてほしい恥ずかしい。なんでそういうことを照れずに言っちゃうかなぁこの犬は。
ひょっとしてこの子がそのまま成長したらとんでもない青年になっちゃうんじゃないだろうか。……ってうわ、だめだ、想像したらいけない気がする。視線の置きどころがわからずに膝のあたりを見るしかない。胸の内に火照る気配を、押さえ込むつもりでコップを腿に押し付けた。
「そ、そそ、そっ、か。よかったじゃない」
うまく微笑めただろうか。からだと心の落ち着かなさをごまかすためになにを言おうかもやもやぐるぐる考え込んでいると、
「……なんだか。昨日より美味しそうなにおいがしますね、カオカさま」
嬉しそうにすごいことを呟かれ、ふっと手元の影が濃くなった。気配の近さにどきりとする。いつの間にやら千里の顔が近くに来ているのがわかる。ふくふくした両手指が俯くわたしの頬へ伸び、甘い強請りが吐息となって額あたりを撫ぜてくる。
「お腹、すいてきちゃいました。よろしいでしょうか」
「え? あ、う」
まだ、だめ。千里の顔は見られない。俯いたまま必死で制止を絞り出す。
「……ま、『待て』。だめ千里。……待って」
みっともなくて弱々しい声が、自分のものじゃないみたいだった。水筒の蓋を震える指で急いで閉めてから、マット端の鞄の隣へ手を伸ばして置く。千里は少し残念そうにはいと呟き、それでも前のめりに距離を詰め、視界の端で尻尾をぶんぶん左右に振りたくり、興奮を隠そうともしていない。華やかな羽織をまとわりつかせた柳腰をうずうずさせて、また、わたしを食べようと、『おあずけ』が解かれる一言を今か今かと待っている。
顔を上げるのが怖い。
素知らぬ顔で昼寝をしていたはずなのに、皿に餌を盛られた瞬間、目を輝かす従姉の犬を、見たことがある。きっと、視線を上向けた先には長い睫毛に縁取られた黒硝子にも、同じような輝きがあるのだろう。大好物を前にして尻尾を振りながら、飼い主に期待を込めてくんくんと鳴く忠犬の瞳。捉えられたら最後、食い散らすまでわたしを離さないだろう本能的な獣の、……ええと。うん。
わかってる。千里にとって深い意味はないんだって、ただの食事なんだってわかっているけれど。で、でもでも、心の準備くらい必要させてほしい。だってなんとなくキスするのかなー? 程度の浅い考えしか抱いてなかった昨日と違って、今のわたしは千里の「いただきます」で、からだがどうなっちゃうのかわかってる。どんなふうに「食事」されるのか、その結果、わたしはまあ控えめに言って下着の交換が必要になっちゃうだろうこととか、いやというほど知っている。もちろんそのつもりで来たのだから、食べられるのが嫌ってわけじゃない、けど。でもここまでいきなりだなんて思わな……、……。
……あ。う。うわ、いやだ。心臓がうるさい。気がつくべきじゃなかった。『待て』なんてしなければよかった。だってつまり、これから、わたしが千里に『よし』をするっていうことは、取りも直さず、わたしの意志で、あの杏の濡れた唇で食べられて、何度も何度も気持ちよさで意識が飛ぶような感覚を与えてくださいと、飼い犬にお願いする、ってことになってしまう、の、では。うわぁあ無理。無理。だめだ。
パニックに陥りかけて自制が働き首を振る。
ううん違う、違う。逆だ。それはわたしがしてほしいだけの場合だ。千里が食べたいって言いはじめたわけで、わたしが『よし』と一言伝えたところでそれは約束通りに犬にご飯を与えるだけ、で、……第一、もう、薄い夏服に包まれた肌が潤んで、待ってる、し。うん。わたしだって、食べて、ほしいのだ。
口元を両手の先で覆って、目を瞑る。
「……昨日よりはお腹、すいてないよね」
「はい」
「今日も手加減、してくれる?」
「……はい。ご希望でしたら、そうします」
真摯で穏やかな相槌。がちがちだった結び目が緩む場所を見つけられたような安堵感に深く息を吐き出すと、俯いていた顔をそろりそろりと上げてみる。頬を、ふっくらした左右の掌に包まれたので、諦めて目を合わせた。
「じゃあ、うん、『よし』。どうぞ」
獰猛な牙を隠さず微笑んだ仔犬の雄は「それではいただきます」と囁き添えて、甘い吐息でわたしの唇をそっと食む。
――あぁもう、この子が大人になったら、絶対まずいことになる。
優しく、丁寧に、天の恵みに感謝をし、ひと匙ひと匙口に運んでいくうちに、止まらなくなる暴食……を抑え込むためか、動きが激しくなる手前で唇をいったん唾液の糸だけ残して遠ざけ、少し休むとまた微笑んで食事の挨拶。時折わたしの名前を呼びながら。くりかえし。くりかえしくりかえし。
何度も何度もわたしを優しく蕩かし貪っていく。