第八章 / わたしは千里に「待て」を教えそびれていた
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人のいない荒れた小道を体育館裏へ歩いて行くと、不釣り合いに可愛らしい南京錠のかけられた、傾きかけた倉庫がある。南京錠の閉ざす扉の内側は、いつだってひそやかに肌寒く、窓明かりがきらきら埃を巻き上げていた。先輩はいつもの定位置――跳び箱に腰掛けて、茶巻き髪を豊かなふくらみに散らして煙草をくわえ、長い脚を揺らしている。わたしはマットに腰掛けて先輩を見上げたり、平均台でパンを食べたり、気分で好みの場所を選ぶ。ぽつりぽつりとした会話。たまに笑い声。喧騒をただ聴くだけの日だってある。
温かな時間は、けれどいつまでも続かない。
――日が暮れるよ。
茜色が滲み出し、二人の影がある程度の濃さになると、冬子先輩は決まって虚空へ呟く。だからもう出て行ってよ、という言外の希望を含ませて。
いつもまっすぐに目を見て話してくれる先輩が、その一言を境に、わたしをまともに見なくなる。それまでくわえていただけの煙草にそっと火をつけ、遠慮なしにふかしだす。もう日は沈んでしまったのだと言わんばかりに、一足先に倉庫へ夜が訪れる。
山の裾野に日が落ちたら、わたしは品行方正な生徒の鑑・二年B組の桧山香緒花に戻って背筋を伸ばし、生徒会室に戻らなければいけない。それは、ルールだ。わたしが旧倉庫にいてもいいのは、季節にかかわらず、日の出ている間だけ。
理由なんてわからない。
それでも無邪気なわたしは、昼休みも、放課後も、時間の許す限りは倉庫へ通い続けた。桜の花びらを踏み、若木の葉を仰ぎ、しとしと雨をハンカチで遮りながら、冬子先輩の顔を見たい、声を聴きたい、それだけの欲望を打ち消せなくて通い続けた。
立ち去り際に襟を引かれ、吊り棚に隠された消臭スプレーを吹きかけられたくすぐったさを忘れられなかった。先輩のことを、普通なら許されないような、そういう意味で好きなんだと自覚するには、少しだけ時間が要ったけれど。
そんな風になにも見えていない馬鹿だったから、……先輩が倉庫に来なくなってはじめて、遅かれ早かれ、冬子先輩の卒業を待たずに、わたしは放課後に倉庫に行くことすらできなくなっていたんだ、と気がついた。放課後を待たず刻々と早くなる日の傾き。掃除当番の週、箒片手に窓を開いた眼前に、迫り来る夕焼け色の容赦なさ。季節の巡りが涼風と一緒にわたしの髪をさらっていって、目頭を悲しみで熱に満たす。
――じゃあ、日が落ちるまでね。
あれは、遠回しに告げられた先輩からの優しい拒絶だったのかもしれない。いくら優等生のふりをしたところで、そんな可能性にすら思い至れないなんて、桧山香緒花は笑ってしまうくらい愚かだった。
だけど愚かだからなおさら、避けられているなんて可能性は認めたくなかったのだ。これからもずっと見えないふりをして、秘密の場所にも通い続けて、いつまでも未練がましく自分に嘘をつき続けるつもりだった。
あの子が突然現れるまでは。
あの子が、……わたしの弱さを、微笑って許してくれるまでは。
夏が終わる。
先輩のくれた執行猶予はそろそろ終わり。
だから、秋の深まる今この時期に、わたしが先輩への想いを断ち切るようにからだを熱に預けていても、責められたりはしないと思う。半端に投げ出して男に開かれて、無邪気な飼い犬のせいで引き返せなくなって、その先が行き止まりでしかないとしても、このまま惰眠を貪りだめになってしまえばいい。
早起きして、お弁当と替えの下着を鞄に詰める。降り続いた雨はやんでいるけれど、今日も雲の多い陰鬱な空だ。傘は折りたたみで充分だろう。
あと一週間でお蔵入りになる薄手の制服を身につけて、上からカーディガンを一枚羽織り、鏡の前で長い髪をくしけずる。
日が暮れるまでたくさんだめなことをして、拾った飼い犬を笑顔で送ろう。笑顔とともに、短かった逢瀬の記憶にも別れを告げる。合鍵ももう使わない。先輩を忘れ、千里の記憶を封じ込め、今までどおりのいい子になって作り笑いと嘘で固めたわたしに戻る。
愚かなわたしを優しいあの子にすべて捧げて、つまらない桧山香緒花の退屈な日常に、明日からは還るのだ。