第十一章 / わたしは千里に甘噛みを許す
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お弁当箱が空になり、ぬるくなったお茶を飲むころには、雨も上がったようだった。
お昼のあれこれを鞄にしまっていると、背後で物音がした。千里がようやく覚醒したらしい。黄な粉色の耳がぴくりと動き、まぶたをのろのろと上げる。しなやかな背をゆるりと起こし、手の甲で両目を擦る。全身を小刻みに震わせてから両手の拳をぐうっと突き上げ縦に伸びて、大あくび。寝起きの犬そのものだ。ただし、……はだけた羽織から柔肌がみえていなければ。結果的に、起き抜けで元気なそれを見せつけるかたちになっている。
ああ、迂闊な可愛いわたしの千里。わたしみたいな、堕落した飼い主にそんな姿を見せつけたら、悪戯されてもしかたないと思う。
「おはよ」
眠たそうな三角耳を二本指で摘まむ。心地よい柔らかさだ。そのまま、いつか従姉妹の犬にしたように、耳裏から首までをくすぐり撫ぜると、
「ふゅわっ」
尻尾が揺れて、可愛い反応が返ってきた。
もう一度こしょこしょしてみる。尻尾を振りながら、肩をよじってむずむず笑い。
「ふわっ、あぅ、あの、くすぐったいです。おはようございます」
なんだか突きつめ甲斐のある悪戯だけれど、危うい予感がしたのでそこでやめた。あられもない姿で、なにも知らない子どもみたいな仕草をされると、アンバランスさでいやらしさがかえって目立つのだと知った。
脈がとくとく早くなる。和むのと、ぞわり欲情するのとが、甘たるい唾液となってわたしの喉を滑りおちていく。
「お腹は、すいていない?」
「ええと、はい……あれ?」
千里はきょとんと瞬きをする。いつもなら寝起きは空腹なのに、お腹が満たされているので困惑したらしい。おかしいなぁ、とお腹をさすって悩んでいる。寝ぼけていたときのことは、もう忘れてしまったのだろう。わたしはすっかり思い出してしまったのだけれど。
「お腹いっぱいなら、普通にキスしようか」
なにを言っているのでしょう。話のつながりもおかしい。さっきから、魔法でもかけられたみたいに口の滑りがいい香緒花。
というのに、
「わあ。したいです」
千里は両手を合わせ、ぱぁっと顔を輝かせた。尻尾を振って、いそいそ距離を詰めてくるので、その手をとる。すべすべの指先を両手のひらで包み込んで、柔らかな前髪に、唇をつけた。それから普通に一度だけ、掠めるような、軽いキス。
薄目をあける。間近で覗き込むと、幼い美貌は心に毒だ。杏色の唇が近すぎて、深くまでしてしまいたい気持ちを抑えるのがけっこうつらい。
「千里」
「はい」
「……さっきは気持ちよかった?」
小声でゆっくりと訊ねる。
ぴくん、と犬耳が跳ねた。
寝入る前の『行為』すべてを指していると、言葉以上に伝わったらしい。長い睫毛がそっと伏せられ、視線がさまよう。血色のよい頬のまわりで、赤毛がふわふわ踊っている。
喉仏が上下して、かすかに唾を飲み込む音がした。濡れた唇から白い歯が覗いたのを、ねっとり舐めたくなるけど、まだ、我慢だ。我慢、我慢。
「……は、はい…カオカさまのおてて、すごくて、あんな……おくちも、いっぱい食べられて……すっごく…」
気持ち、よかったです。
……掠れたアルトが、鼓膜を舐る。
蜂蜜色の告白に、理性を抉られた。気がつけば舌と舌との先っぽどうしが触れている。舐めて濡らした下唇をそっとくわえて口に含み、舌でなぞる。わたしも気持ちよかったよ、という思いを込めて、ちゅ、ちゅ、と繰り返し食む。
視線の先で、幼い瞳が潤んでくる。包んでいただけの手が、わたしの指に割り入って、いわゆる恋人つなぎになっていく。仔犬とわたしの指と指が、言葉の代わりに絡み合う。そのまましばらく、浅めのえっちなキスを続けた。長い黒髪が、カーディガンの裾で跳ねる。
さっきの射精のあとは身支度をせずに寝て、そのまま起きたから、千里がまとうのは、飾り紐の解かれた羽織一枚だ。銀糸模様のふんどしはマットの隅でくしゃくしゃになっている。まとうもののないむき出しのそこが、どうなってきたのかなんて見なくてもわかる。だって絡んだ手の甲にいつの間にか当たっている。舌を吸うたび、生温かいのが、びくんってしてる。
「ぁ……さま、して…」
「…ん……なぁ、に?」
「また、一緒に…い、こと……」
脈打つ心臓と弾む吐息の間で、蚊の鳴くようなおねだりじゃよく聞こえない。
唾液の糸を細く渡して、わたしも途切れ途切れに訊き返す。
「なに、ちゃんと言って、聞こえないから」
「あ、あ……う、」
千里は言葉を失い、俯いて赤くなった。ほんとうに、欲望を口にするのが苦手な少年なのだ。ぺったんこの胸元が、とくとく脈打っているのが見えて、わたしにまで甘い微熱が移ってしまう。これじゃあ、誘惑しているのかされているのか、わからない。
「なんでも言っていいよ」
背中を押してあげると、こくりと唾を飲んだだけの覚悟で、ぽたりぽたりと甘湯が漏れでてきた。
「あ、あの、ぼく、へんなんです、熱こもってるのに、出さなきゃいけないのに、ひとりで触るのもったいなくて。だってあんなの、してもらっちゃったらもう、ぼく、…カオカさまのおてて見るだけで……、また、一緒にしてもらいたくなっちゃうから……」
ぎゅっと目を瞑り、絞り出された千里の思いが渦巻いて耳を押し潰す。……そんな顔だめだ。こんな言い方ってない。ずるいと思う。かえってわたしの方が、蚊の鳴くような小声になってしまう。
「……そんなに、気持ちよかったんだ?」
「はい……はいっ、ご主人さまのおてて…こうして触ってるだけで、あぅ、もう、出ちゃいそうなんです…!」
ぎゅうと握られた手の力があまりに強くて、少し怯む。深い沼底へ引きずりこまれそうだ。
なにより、この子、今わたしのことをなんて呼んだっけ。
ご。
ご主人、さま……って、いわれ、た……。
予想を上回る頭上からの一撃で、完全にフリーズした。どっどっどっと、耳の奥から殴られ続ける鼓動の衝動。全身が熱い。心臓、壊れ、そう。
「え、ぁ、……う」
耳たぶが火になってしまったみたいだ。口は動くのに声が出ない。
発情した雄犬はいちど欲望を口にしてしまったことでスイッチが入ったらしくもう止まらない。わたしを熱っぽくひたと見つめて、握力を弱めることなく、すりすりと上半身を寄せてくる。
「カオカさま……ぼくのおちんちん、また、優しいおててでいっぱいいっぱい擦ってください…。ぼく、なんでもしますから……言うこと、なんでも聞きますからぁ…いっぱいご主人さま食べながらぼくも食べられて、おなかいっぱいになりながら、思いっきりびゅーってしたいんです――」
「あ、あう、えちょ、ちょっと待ってっ」
今にも食べられそうな至近距離で強請られる。黒硝子の瞳に炎が揺らめいて、視線を逸らすことさえ許されない。ていうかちょっと、だから、あれ。あの、わたしが、誘おうとしてたのに、どうしてこんなことに。
だめ。落ち着かなくちゃ。だって、わたしは『ご主人さま』なんだから、飼い犬に手を噛まれるなんて恥ずかしいことしちゃいけない。
なんとか首を反らして顔の距離をとる。少しだけ手を押し戻すと、どうにか制止を言葉にできた。声が震えて情けない。
「お、落ち着いて。……わかった。千里の言いたいことは、わかったから。気持ちいいの、よかったんだね。好きになっちゃったんだ、よね」
瞳を輝かせてこくこくと何度も頷く犬。尻尾がちぎれんばかりに振れている。
わたしは、三秒ほど逡巡してから、おそるおそる、千里の瞳を見つめ返した。ドキドキわくわく、わたしなんかに期待をしてる。要求との落差が大きい無邪気さに、思いがけずちょっぴり頬が緩んでしまう。
……そう。これでいい。わたしは朝からそのつもりで、一緒にそういうことを楽しむつもりで、来たはずだった。可愛い少年にいけないことを色々教えて、気持ちのいいことをたくさんするのだ。迷い犬が帰るおうちを見つけても、ひとりぼっちで後悔なんかしないように。
くすりと笑って、ふっくらした手を握り返す。
もう、声は震えていなかった。
「じゃあ、……さっきより、もっと気持ちいいかもしれないこと、やってみる?」