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Scarlet Stitch

本編+後日談
本編 (*R-18)
Extra
番外編
🌸…本編ネタバレあり
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Valentine For Veiled Farewell

オーブンの傍で座っていると幼なじみが台所を覗いた。
「いいにおいだね」
「渡すのは明日だよ」
「分かってるって」
もともとは兄さんの遊び相手だった。
でももううちに入り浸るのが普通になっていて、兄さんがいなくてもよく来ている。
同じ高校の一つ先輩だけれど、小さい頃から見知っているせいか相変わらず敬語は使えない。
背の高い彼の向こうには、居間と白い景色が古い天井の下に見えている。
明日は2月14日で外は雪だ。
幼なじみは相変わらずよく分からない優しさで傍にいて、でも来年はいない。
実感が湧かない。
この人は三年生に進級しないで、海外に行ってしまうそうだ。


オーブンの深いオレンジ色の中ではチョコバナナマフィンが出来上がるのを待っている。
私は眺めていたお菓子作りの本を閉じて、丸椅子をもうひとつ引き出してきて当たり前のように傍に座った幼なじみのセーターを見上げた。
別に何を言いたいわけでもなさそうだったので、また本を開く。
と、隣から肩をつつかれた。
「なあに」
「結構数作ってるけど、誰かあげたいやつがいるわけ?」
詮索された。
別に色気がある答なんて用意していないので聞かれても困ってしまう。
「部活の先輩と家族だけ」
「おまえんとこ男の先輩いたっけ」
「ううん。いないけど三年生の先輩に、お疲れさまでした替わりに各自作ってくることになってる」
「ああ。そう」
穏やかに笑う瞳に、なんだか馬鹿にされているような気分になる。
ときめきなんて小学二年生のときの初恋以来未到来で、だから恋愛なんてよく分からない。
遅れているのかもしれない。
別にいいけど、この人に言われるとなんだか溜息が出る。
幼なじみが隣で軽くオーブンを覗き込んで軽く私の肩に身体が触れた。
男の人の身体になっているなあと頭の隅で思う。
「まだ焼けないよ」
「義理だけなのに手作りなんて律儀だよね。おまえらしいけど」
「うるさいなあ」
からかい口調にお菓子の本を閉じて、軽く息をつく。
兄さんによればこの人は本命を数年に一度貰うようなタイプらしいので、(でも貰ったはずのチョコレートは見たことがないので本当か謎だ)本命というチョコレートのほうに縁があるのかもしれない。
どうせ来年はそういう習慣のない国へ行ってしまうくせに。
向こうの国ではカードを送るのか花束なのか、そういうことまでは分からないけれど。
「義理っていっても普段から大切な人にあげるのには変わりないもの」
「そう」
「うん。そう」
「ぼくも大切?」
「うん」
そういうことを直接聞くところがこの人らしい。
まあ大切な人といわれればそうだ。
少し目を逸らすと居間の外のうっすらした雪と、炬燵で寝る弟が見えた。
何も言わずただ撫でられて微妙な気分になった。
本当の兄さんよりお兄さんみたいだ。

――でも、そんなこの人はお兄さんではないから、どこに行くにもうちとは関係なく。

来年一年間はうちにも来ないし、学校でも見かけなくなる。
そんな日常があるなんてどうにもまだ、信じられないけれどこの人は来週には日本から去ってしまう。
実感が湧かないのは何でだろう。
兄さんの方がきっとずっと寂しがっていて、私なんておまけみたいなものなのだ。
幼なじみが立って、インスタントココアを入れてくれた。
マグカップを受取って、あと少しで焼けるオーブンの時間表示を眺める。
台所が涼しいので湯気がぬくい。
海外といっても行きっきりではなく市かなにかの制度による交換留学のかたちになると聞いた。
来年春には帰ってくるらしいから、二年後はまた私はこうしてチョコレートのお菓子をここで作るかもしれない。
実感は湧かないけれど、幼い頃からの日々の実感は、確かに記憶にしっとりと積もっている。
――本当に、家族以上に家族みたいな気がする人だから。
いなくなったら寂しくなるかもしれない。
隣に腰掛けた高い位置の横顔をしばらく見てから、声をかけた。
「あの」
「なんだい」
「外国行っても身体に気をつけてね」
「……皆言うなあそれ。ありがとう」
「がんばって」
「何、今日は優しいじゃないか」
低い声が小さく笑って空いた大きな手がぽんと頭に優しく置かれる。
男の人の手になっていた。
「来年は手作りももらえないのが残念だよ」
「うん。だから今年は二個あげる」
幼なじみが黙った。
それから何か言いかける前に、賑やかな音がしてマンションの扉が重く音を立てて、兄さんが誰かを数人連れて賑やかに彼を玄関で呼ばわった。
幼なじみが苦笑して腰を上げる。
こうして毎日彼をどこかに引っ張っていくのが、兄さんなりの餞別なのだろう。
「じゃあ、上手く出来るといいね。明日楽しみにしてるから」
「うん」
そうして男子高校生の雰囲気に混じれて遠くで玄関が閉まる反響が薄まると、急に小さな台所が静かになった。
ココアを飲み込んでなんだかなあ、と意味もなく思う。
やがていいにおいがしてチョコバナナマフィンが焼けた。
――別に好きな男の子がいるわけでもないし、女の子らしいイベントの参加もしないけれども。
こうして誰かに何かを作って渡して、感謝を出来る日があるのは嫌いじゃない。
明日は2月14日だ。
大事な人達に一年間のありがとうと、大好きですという言葉の代わりに、贈り物を。
それから幼なじみには一年間だけのさようならを。
二年後にはまた贈り物を出来ることを祈って。

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