その30
小さい頃、橋田依斗くんのうちに遊びに行ったことがある。
連れてきてくれた兄さんの意図は今考えれば、ただの人数あわせだったのだろう。
ともあれゲームに混ぜてもらって遊んでいると、途中で二人が喧嘩しだした。
それでつまらなくなって私は一人で帰ろうとしたのだけれど、階段で転んでしまった。
そのまま半泣きでイトくんのうちに戻ったら、二人が私に気付いて謝りたおして、仲直りした。
思い出すだけで呆れる。
年上二人も仕方なければ、私だって格好悪い。
幼馴染だからといって、支えになるような思い出も、美しい約束も特にはなく。
(もっともあの二人は互いにそういうものを持っていたかもしれないけれども)
そうこうするうちに、気付けば成長してしまった。
傍に居続けた兄さんは東京に自分の住処を持って、いなくなり。
私とイトくんもどうなるか分からない。
弟は物心つくどころか高校生だ。
――だからいつか自然に離れるはずだった。
あの人が私の手さえ握らなければ。
それを私が、心地よく思うようにさえ、ならなければ。
でももう、自然に任せて一緒にいるだけでは足りないのだ。
"幼馴染"の延長上は、もう、自分でレールを敷いていくしかない。
だって私も彼もこの先は、大人になるしかないのだから。
大人になるということは、誰の電車と同じ路線を走っていくか、自分で決めていくことなのではないかと思うから。
だから。
寂しさにかまけて予測に怖気づいて、それを先延ばしにしている私は、きっと、彼から逃げている。
それはかえって、遠回りなのだと感づきながらも。
布を通らない針が結局何も縫い合わせることができないようなものだ。
一針、糸が行き交うごとに離れ難くなる反面、そのたび必ず痛みが伴うような。
――風が吹いて、重いドアの軋みにかなしさを添えた。
手の中で、袋の紐が指に食い込む。
『橋田』と書かれた表札には、おじさんとイトくんの二人の名前だけ、古びた黒で読むことができた。
夢を見ていた。
誰の夢だか分からないまま、西日に顔を照らされ、目が覚めた。
顔と腕が、堅い机に突っ伏して寝ていたせいで痛い。
生温い空気の橋田家の居間は、同じ構造なのにうちとは全然雰囲気が違った。
机に読みかけの『夜間飛行』を取り上げて、目を擦って立ち上がる。
時計は五時半だった。
袋を届けてアイスを冷凍庫に入れて、ポカリスエットを入れ替えて。
風邪薬は飲んだ跡があったので、カーテンを閉めて電気を消して、毛布を掛けなおした。
イトくんは少し目を開けたけれど、また朦朧と眠りに戻ってしまったのでそっと居間に出てきた。
その後は、結局何もしていない。
部屋にいても静かに眠れないだろうし、実際する事がないのだ。
でも本当に具合が悪そうだったので、置いて帰るのも気が引けた。
イトくんが好きだといっていた本が居間の本棚にあったので、読み倒した形跡のあるそれをなんとなく読んでみたりもしたけれど。
群青色の文庫本の表紙を眺めて、窓に視線を移す。
もう、ほとんど日が暮れている。
居間を見渡して、テレビの裏の死角にさりげなく積まれた雑誌に気付いて、しばらく見つめた。
怪しげな表紙に、まさかと思いながら少しめくってみて、……黙って閉じた。
それからもう少しぱらぱらと読んで気恥ずかしくなってやっぱり閉じた。
……頭に血が集まって、なんというか、その、困った。
それはここに隠しておけば、万一自室を掃除されても、お母さんには見つからないだろうけど。
だからってこういう雑誌を居間に堂々と置くのもどうなんだろう。
なんだかどうしていいか分からなくて、変に身体が熱くなる。
別に私がどうこう言う問題でもないし、誰がいるわけでもないけれど、なんというか微妙に気まずい。
というか、初めて小さいのはどうなのかと思ってみたというか――
遠くから、パチンコ屋の宣伝の車が高い音で聞こえて、ふと我に返った。
肩の力が抜けて、深い溜息を漏らす。
人のうちの居間で何をやっているのだろう。
読みかけの文庫本を本棚に戻して閉じたドアを見遣る。
制服のままもなんだし、様子を見てから一旦帰ろう。
襟を直して、そっとドアノブを回して隙間から覗く。
まだ寝ているようだった。
風邪特有の空気がにおう床に、足を静かに踏み出す。
うちでは兄さん達が使っている位置にあるこの部屋は、同じ大きさでも随分雰囲気が違った。
イトくんの空気がする部屋だった。
絨毯は薄くて、本棚がとても多い。
カーテンの色も薄い灰色で、黒の線が斜めに模様で引かれている。
ふと、何かが目端に入った。
横の本棚に倒れている赤い背表紙の分厚い本が目を引く。
背表紙に書かれた黒い文字が、私の意識を奪いかけた。
「……誰」
突然不審そうな掠れ声がして、すぐに意識が逸れた。
窓から漏れる西日が隠れる下で、幼馴染が薄目を開けていた。
「イトくん」
起きているとは思わなかった。
ベッドに歩み寄って覗き込む。
薄暗さに良く見えないけれど、前より顔色が良くなっていたのでほっとした。
「ひーこ」
「お母さんが仕事だから、代わりに来たの」
彼にしては随分戸惑っている視線に答えて、体温計を手渡す。
熱計って、と言い添えて、傍の椅子に座った。
「……珍しいね」
幼馴染がなんとも言えない声で呟いて、私を眺めたままで体温計を受け取る。
風邪特有の声が苦しそうで胸が押された。
熱を測っている間はすることもないので、とりあえず電気をつけた。
そのまま、さっきの本棚に視線を向ける。
横でごそごそと起き上がる気配を感じながら、ぱっと明るくなった部屋で、赤地に書かれた黒文字を改めて眺めた。
大学別過去問集の、いわゆる赤本だった。
一冊だけのその本の意味が、心の中を泡立たせる。
どう考えればいいのか分からなくて、制服の袖を緩く掴んで視線を揺らす。
しばらく言葉を飲み込んで、それでも聞きたくて、朦朧と熱を測る彼を見つめた。
そして、目がかすかに滲んだ。
言葉が薄れて喉の奥に霧散する。
さっきより良くなったといっても、明るい光の下で見れば充分具合は悪そうで。
ピピ、とかすかな音がする。
イトくんは表示を眺めて、少し安心したみたいに私に渡した。
…三十八度二分というのは、一応下がったことになるのだろうか。
電子表示から視線を彼に移すと、視線がはたりと合った。
かすかにはやまる脈を感じて、身体が自然に動いた。
幼馴染が黙って、私の動きを目で追った。
椅子から腰を浮かせて、肘を伸ばして、一瞬、躊躇う。
頬にそっと指で触れ、手の平で覆った。
熱かった。
「具合、どう」
「風邪移るよ」
イトくんが、なぜかおかしそうに、少しだけの気遣いを混ぜて目を細める。
その答えになってない答えで、僅かに気が抜けた。
何をさせたいのかこの人は。
仕方なく溜息をついて頬の手を離そうとすると、熱い指先に引きとめられた。
重ねられた力が、いつもと違って弱くて遠慮がちでかえって動けなくなる。
その熱で緩く手の甲を撫ぜられて喉が詰まった。
……今更意識するのも変だけれど、この人の手は、本当に男の人のもので。
絡んでしまった視線をほどけなくて、顔が余計に血を通わせる。
私は何をしに来たのだろう。
これじゃあ、全然、看病になんてなっていない。
喉の奥が熱かった。
自分からするのは初めてだった。
彼がする前に、眼を伏せてからぎこちなく唇を重ねた。
頬に触れた手の上を、なぞる指先がかすかに震えた。