その49(2)
これだけ暗ければきっと顔色なんて分からないだろうと願って視線をそっと戻し、また逸らした。
雨はいまだに降り続けていた。
外からかすかに聞こえる車の水をはねるタイヤ音が、近くなりやがて遠ざかる。
「そんなに難しくないと思うけど」
「そうかな」
「後ろ、外すだけだし」
暗がりでもより濃い影が、頭上にかかった。
絡んでいた指が手の甲を撫ぜるようにしてから離れ、両腕ともが紐を手繰る。
ごそごそと背中でされるのがくすぐったい。
数秒間弄くった後、指先が少しだけ止まった。
そして軽い溜息が髪を揺らして、かすかな笑いが間近で響いた。
「よくつけられるね、こんなの」
振動が全身にしみこんでじわりと溢れる。
いいから早く外してほしい。
また肩甲骨の辺りが擦れ、少しするとやっとかすかな響きでホックが外れた。
肩紐が緩んで、僅かに薄水色のレースが浮き上がる。
肩から浮かせて身を捩るだけで静かに両側とも毛布へと落ちた。
背中の腕が力を強めた。
髪の横で吐息が、熱くなってそれが伝染して唾が湧いてくる。
さっきみたいに耳を唇ではさまれてさらに溢れた。
「…っ、ぃ」
「いい?」
頷いて身をそっと離すと、頬に唇が移った。
胸を温かいなにかが探ってそっと包みこむ。
大きな手の動くたび目端が滲んで喉が震えた。
呼吸が大きくて不規則になる。
あちこちにゆっくりと舌が這っていくうちに、視界が傾いでいた。
いつの間にか枕に頭が押し当てられていてシーツが背中に柔らかくあった。
ぎしりと軋んでベッドが体重に耐える。
頬から、唇から歯茎の裏へと移って、湿る呼吸は彼の肉に擦り付けられてそこで別のものに浸されてしまった。
あまり大きくないのでイトくんの大きい手でほとんど見えなくなってしまうそこが捏ねられて少しだけ痛いのに変な感じがする。
圧し掛かる体重が心地よい重さで、僅かに立てた脚に押し当たるものに勝手に腰がひくりと動いた。
そこを無意識にどちらともなく押しつけると舌を吸う動きが自然と深くなる。
伝った唾液は顎から喉に伝ってシーツを時折濡らした。
「…は……、ん、っ」
舌が別の場所に移ったので勝手に喉から空気が漏れる。
尖端を摘まれたところに舌が触れて顎が僅かに反った。
漏れる空気が押し殺しきれずどうやっても上擦る呼吸に変わっていく。
脚の間の下着は擦れ合う腿の間で確かに濡れているのが分かって余計に腰から熱さが増す。
窓がかたかたと揺れたのも、風のせいなのかこの部屋のせいなのか判然としない。
気持ちいいのか聞かれたので朦朧と頷いたような気がしたけれどそれも気のせいだったかもしれない。
片方の手が僅かに浮く背中に回された。
いつしか当然のように下の方にも私のとは全然違うあの指先が伸びていて、薄布越しに湿る場所を探り当てて円を描くように撫でた。
想像と全然違った。
自分でするのなんて別のことで、もっとこれは違っていて、名前を呼ぶ声なんて言葉にもならなかった。
絶対下着をはいている意味がない。
噛まれる。
胸の尖端というものはもっと柔らかくなかったろうか。
強く吸われて思わず喉が詰まった。
外はもっと涼しくなかったろうか。
服を着ていないのに汗が伝うし、擦れ合う肩からも汗が時折零れ落ちている。
手首から肘の裏を撫でて痛いくらい掴むのは私をいつもなでてくれたあの手で、脇を舐めるこのざらざらした肉はさっきまで私の舌を食べていた。
――おかしい。
変になる。
誰なのかということを意識するだけでもう、声が泣きそうに高くなる。
少し上のある部分を探り当てられて逃れたくて身を捩った。
腰が勝手に浮きあがって足先が震えてくる。
下着の隙間から直接そこに触れられさえしてもうわけが分からなくなる。
暑すぎて意識なんてどこかに浮いてなくなっていく。
もう勝手に溢れてシーツが思い出したように落ちる腰の下で濡れて冷たい。
どこかで浮かされたように私の名が呼ばれるのに気付いたときもうだめだと思った。
縋りついてさっきとは別の箇所に唇を落としている髪の毛に手を埋めて、脚の奥を探る方に無意識に腰を押し付ける。
シーツが足指の先でずれてくしゃりとどこかによっていく。
「あっ、いとく、……っ、」
来ると思ったのに来ない。
この前より深く広く満ちているのにまだ来る感覚が押し寄せて溢れても溢れても来る。
でも来た。
抱きついて、時折求められる舌を私からも必死で求めて、何度名前を呼んだか分からないころに涙が出た。
どれだけそうして全身を唇で辿られて、撫でられているのか分からなくなったせいか、やっと満ちて視界が閉じた。
意識が溶けた。
やっぱり声が声にならない。
でも、抱きしめられている腕の硬さと密着するあたたかさが、あることにひどく安心して、流されるままに私はそこにすべてを預けた。
シーツのぬくみを、雨を聞きながら知っていた日があった。
あたたかい春雨の降る日だった。
小学校に入学してすぐだ。
シューズが取られてしまってそのままで帰ってきた。
靴下にしみた水がきもちわるかった。
熱っぽい手のひらを憶えている。
白い濡れタオルの気持ちよさも。
あの日の玄関も肌寒くて、熱を出して預かられていたイトくんと二人でお昼ごはんを食べた。
たいしたことじゃなかった。
サンドイッチだった。
夕暮れにはおじさんが迎えに来たので私の部屋で寝ていた彼は帰っていき、幼い私は暇だったので空いた自分のベッドに潜りこみ――
視界がうっすら戻ると天井のしみが見えた。
髪の脇にくすぐったい感触があったのはキスされたのだろう。
深く静かに耳に届いた言葉に息が震えて、じんと熱くなった。
「ひーこ。ごめん、大丈夫だったかい」
薄暗い自分の部屋で、背中にはシーツが湿っていた。
僅かに顔を横にずらすと幼馴染が覗き込んでいる。
頬にある手のひらが熱くて気持ちがほわりと温まっていく。
すまなそうな顔をしているなあとぼんやり観察しながら、無意識に頬の手に重ねた。
あたたかくて嬉しかった。
「うん……」
「なんか、悪い。やりすぎたかな」
尋ねる言葉に首を振って、黙って脇から覗き込む人に手を取ってもらって、僅かに背を起こした。
汗ばんだのに涼しく流れる湿った空気が、身体を適度に冷やしてくれて溜息がこぼれた。
辺りを見回すと毛布が完全に床に落ちていた。
雨がまだ降っている。
どちらともなく唇を合わせて、ほんの少しだけ舌先で触れて、もう一度長く触れるだけのキスをした。
さっきの感覚を底が引きずっているのか、身体全体が朦朧とあたたまっている。
それからもう意味を成さなくなっている下の薄い布をそっと脱がされた。
かすかに水音がして糸を引く。
イトくんが黙ったので、余韻で遠のきかけていた羞恥心が微妙に舞い戻ってくる。
さっきからイトくんが下を脱がないのは苦しそうなのではないかなあとか、そういう方に無理矢理思考を戻そうとするけれど上手くいかない。
たっぷりの沈黙が過ぎてから、聞き取りづらい囁きを添えて、見間違いようのない瞳が穏やかに目を細めた。
「ん。……綺麗だ」
「そう」
細く答えて熱い顔を下げた。
そんなことを自分で考えることなんてないけれど、イトくんがそんな風に誉めてくれるとそうなのかなと思ってしまう。
本当はどうかなんて分からなくても、やっぱり嬉しい。
眺めて、見上げて、私から少しの短いキスをしてみた。
自然とこちらからも触れたくなって、顔を僅かにずらす。
指の腹で肩までなぞって、真似ではないけれど、幼馴染の首筋に唇を押し当てた。
一秒間。
放すのが惜しくて溜息が出た。
……この人がしている気持ちがわかるような気がした。
彼がおかしそうに身じろいで頭を抱え込み引き寄せたので瞬く。
「貧相なんだから、あんまり確かめられると困るよ」
その言い方がおかしくて私も少しだけ笑った。
なぜだろう。
今までで一番自然にいられるのはとても嬉しいけど。
肌に直接触れる外気が涼しくてもおかしくないはずなのに、あたたかくて心地が良い。
「イトくん」
「ん?」
「昨日も今日も、心配してあげられなくてごめんね」
幼馴染は何も言わずに、頭に置いた指を僅かだけ動かした。
そしてうん、となんとはなしに呟いて予想外のものと出会った人のような、溜息をゆっくりと漏らした。
それからまた僅かに沈黙して天井のしみを仰いだ。
触れ合う肌から伝わるのは体温だけではないだろう。
脈が皮膚の裏で血管を通って、身体をめぐって、温めているけれどそれは、私とこの幼馴染と別々の血に他ならない。
だからこそこうして少しでも肌を触れ合わせると、交わらないものが近くなるように心の膜くらいなら溶け合ってくれるのだろうか。
――それはとても、不思議な行為だ。
「緋衣子」
頭の脇で囁きが髪を撫ぜて視線を浮かす。
「なに」
「そういう気負いのない気遣いは、おまえの家族みんなに感謝してた。ずっとする」
「うん」
「だから、そうだね。かっこつけても隠しても、見抜かれることくらいは分かっていたんだ」
そうしてかすかな諦めたような、でも喜んで受け入れるような、笑みを含んだ余韻があった。
私は睫毛を数回上下させて、聞き慣れすぎた声を聴いていた。
脈打つ胸元にささやかに触れる肌は確かに細く、きっと生まれた頃から頻繁に熱を持って気だるく風邪を受け入れ続けている。
勿論それを悔しく思っているイトくんだって、いつもどこかにいるだろう。
雨がまだ降っていた。
何度も降るように。
幼い頃の春のように、いつか看病していた秋のように、小さな窓に水滴を伝わせながら降っていた。
「おまえはいい子だね」
不意に幼馴染が小さく笑った。
そして何気なく、でもとても深い声であの一言を耳元で伝えた。
髪が俯いた頬に、かかって汗ばんでいたので張りつく。
心臓の鼓動ははやいのに穏やかな音をしていた。
「うん」
頷いて、なんとなく笑う。
「知ってる」
そう、とおかしそうにイトくんが耳の上で笑って幸せそうに腕を寄せた。
今度は冗談ではないと分かっているから、きっと忘れないでおこう。