遠いあの日に一度だけ、幼馴染と手をつないだことがある。
つないだというよりも、眠る傍でただ不安そうな手を包んでいた。
汗ばんだ指先がかすかに手の中で動く。
窓の下から遠く聞こえる車の音はどこか別の街から届いてくるようで不思議で、幼い私は雨上がりの窓をずうっと眺めていた。
私のではない汗が指先に熱を持ってべとべととする。
窓から差し込む光が頬に淡く、カーテン越しに部屋を照らしていた。
一学年上の幼馴染は、熱に浮かされた顔で枕に頭を埋めたままでいた。
気がつくと薄目を開いてぼんやりと私を見つめていた。
――五年前の秋の土曜日、それがなぜか不思議で、少しだけ微笑った。
その29
幼馴染は身体が弱い。
四時前の空はまだ青く、風は弱くて涼しかった。
一人で帰る放課後はなぜだか周囲が騒がしくて風が薄い。
今日一日空席だった場所を思いながら、スカートを押えて信号を待った。
昨日うちに来なかったと思ったら、やっぱり今日は休みだった。
季節の変わり目にはよくあることだ。
熱が高くなければいいのだけれど。
考えながらぼんやりと中学生が横を通り過ぎるのを眺めて、帰った先にいる人に氷を一つ買っていった。
「ただいま、」
玄関を引くとたたきに慌しい人がいたので口をつぐむ。
てっきりパートだと思っていた。
お母さんがものすごく助かったという顔をして立ち上がり私を輝く目で見つめる。
「緋衣子!ちょうどいいところに」
おかえり、も言わず、当然のように謎の袋を押し付けて靴を履くのを再開するので肩を竦めた。
「お母さん。何、この袋」
「橋田君ちにね。せめてもう一度届けに行こうと思ったんだけど、時間がないのよ。緋衣子お願い」
「いいけど……イトくん、どうかしたの」
お母さんはバッグを肩にかけ、心配そうにそわそわした。
本当は仕事も休む勢いだったのだろう。
「ここまで来れないくらい具合悪くって熱高いの。さっきは三十九度だったけどまだ上がりそうで」
「そんなに?」
僅かに眉を寄せて、袋の紐を握る。
……それは本当に、数年ぶりだ。
大丈夫なのだろうか。
「病院は」
「明日になっても下がらなかったら連れてくけど、ああもう時間ないわー!」
お母さんが叫ぶので、ドアを開けて横にどけ、道を作った。
この調子だと下手をすると私が怒られ始める。
「もし熱下がってきたら、できればうちに連れてきて。仕事今日は短めにしてもらったから、七時頃には帰るわ」
「分かった」
「じゃあね、それよろしく」
お母さんが去っていくのを無事見届け、ちょっとだけ気が抜けた。
玄関に学校の荷物だけ置くと、制服のまま外に戻る。
最近は少なかったとはいえ、そのくらいの高熱は別に、珍しいことではない。
それは、分かっていた。
……分かっているけれど。
崩れかけの階段を、制服のままゆっくりと下りながら、片手で髪をさらう。
一段降りるたびに袋が揺れて、膝をぶつ。
こんなことはしょっちゅうあることだと、割り切っていたのに。
意外に私もなんというか、なんだなあ、と呆れて弱った。
大体それ以前に、幼馴染だというのに問題ではあるのだけれど。
実は家を覚えている自信がない。
二階の一番奥でよかっただろうか。
彼の家に行くのは小学校低学年以来だ。
いつもあの人の方から、うちに来ていたから行く機会もなかった。
階段に足音が霞む。
手の平に食い込むビニール紐を握って、階段を下り切る。
まだ空の高い頭上が青くて、目にしみた。
ふとお母さんの焦りようを思って不安になる。
大丈夫なのだろうか。
うちに来れないということは、歩くのも辛い状態なのだろうと、思うけれど。
そこまで考えてまた足が止まった。
風が涼しく、袋を揺らしては足にぶつける。
結局そういうことだ。
大丈夫だと知っていても、珍しいことじゃないと、分かっているとしても。
あの人が苦しいのは嫌だ。
食料袋を持ち直し、肌寒さに足を早めた。
顔の横を蜻蛉が飛び去って、どこかでちり紙交換のテープが単調に鳴っていた。