その37
お互いに動かず、
そうしていて、
どちらともなく離れた。
腕を緩めると包まれていた指先がそっと放される。
体温が去る感覚がいつもより深くて寂しかった。
なんなんだろう。
息をついて、遠くのシャワーが響く音を、ぼんやりと思い出す。
イトくんはかちゃかちゃとお茶の準備を始めた。
手馴れていて手伝うことがない。
お風呂の残響がまだ壁越しに届いていた。
周りの音がやけに静かな耳に、響いてくる。
ぼんやりと食器棚に寄りかかって寝間着の袖を弄んでいると、火がつくチチ、という音に混じって遠くで消防車のサイレンが鳴り、やがて遠ざかった。
台所から見える居間の外は、もうほとんど夜だ。
かちゃり、と、陶器が触れ合う。
なんとなく息が霞んで、寒い。
「ひーこ」
皮膚に声がしみたので、視線を自然に向けていた。
イトくんが肩越しに振り返ったまま、私を見ている。
狭い台所の床が冷たい。
読めない視線に鼓動がはやまって、熱が僅かに上昇している。
「なに」
「風邪は? もういいのかい」
「…だいぶ。明日には学校行けそう」
イトくんが安心したように笑って、お土産の封をはがし始めた。
「言ってなかったけど。移して悪かった」
「いいよ」
「最近おまえ、積極的だよね」
「……」
恥ずかしいので無視した。
なんだか芯がぐつぐつする。
「あとね、ひーこ」
「なんなの」
「うん……あちょっと待って」
投げやり気味に返すのに、イトくんは普通に笑って、手を上げてからガスを消した。
沸騰したやかんが火から降ろされて換気扇も消える。
「えーと、お土産開けてくれる」
「いいよ」
湯気が熱そうな音で立ち昇っていた。
包み紙をたたんでゴミ箱に押し込み、中から三人分のお茶にちょうどいいだけ取り出す。
薄い色の和菓子だ。
夏に行ったお墓のある場所の住所が製造元で、ふと気持ちが緩む。
あの日は空が本当に白くて青くて。
暑いのに、心地がよくて。
狭い台所は床が冷たい。
なのに隣の存在はあたたかいのが不思議だ。
あの時みたいにきっと、長い距離の移動で疲れているのに。
髪が揺れて、そっと横を見る。
伸びた指先に目元から耳までを弱くなぞられて、かすかに痺れた。
そして、
それだけで離れたことが悲しい自分はやっぱり、いつもと違うと思った。
――留守中から私はいちいち、おかしい。
耳元の余韻を意識から追い出そうと、お茶を入れているイトくんを眺めた。
もう一度さっきのようにしたら困らせてしまうだろうか。
熱湯が傍にあるから、危ないだろうか。
甘く疼く指先で冬の寝間着を掴み、溜息を漏らす。
引いたはずの波がどこかで遠い海鳴りを、血の中に流しているような気がした。