その45
早い帰宅だったので、お母さんがいなかった。
さっきのやりとりのせいか妙に沈黙してしまい、玄関で視線を微妙に交わす。
とりあえず上がって、着替えないまま二人でお茶を飲んだ。
取り込んだ洗濯物がローテーブルの脇に積み重なっていて、湯呑が熱い。
私は手を洗うついでに左指の絆創膏を張り替えようと、箱ごと持ってきて急須の傍に置いた。
イトくんが腕時計を眺めて、少し考え込んだ。
「おばさん六時上がりだよね」
「…うん」
「じゃあちょっと無理かな」
ぽつりと呟かれて、なんともいえない気分になる。
何をするのが無理なのか分かるのは、今だからで、夏休み頃の私だったら気付かなかったかもしれない。
遠くで車の音が響き、二人しかいない居間が涼しい。
こういうときに気の利いた答えが言えればいいのに。
どちらともなく軽く息をついて、視線を合わせる。
私は背後の窓を見上げて立ち上がり、カーテンを半分閉めた。
湯呑がことりと音を立てる。
低い声でそっと、幼馴染に名前を呼ばれた。
隙間から流れ込む秋の空気に聞きなれた声がしみていく。
「なに」
「言いたいことがあるから、そのまま聞いて」
肩越しに振り返ろうとすると、止められた。
「振り返らないでくれると助かる」
逆側のカーテンに手をかけて、頷く。
ほとんど夜で星が明るく、私の正面だけガラス越しに外を眺めることができた。
顔を僅かにずらすと、暗い窓におぼろげに彼が映る。
ソファに座って、机の湯呑を見ていた。
私も自分の靴下に視線を落とした。
「それで、なに」
「分かっているだろうけど、前も言ったけど」
カーテンに触れていた指が、震えた。
額を窓に軽く寄せる。
「…うん」
「抱きたいと思ってる。正直今も欲しい」
静かな口調なのに、背中には熱の塊みたいに深く食い込んでいく。
届く声が深かった。
動悸が勝手にはやくなり皮膚を内側から熱い板で殴っている。
イトくんらしくなく落ち着かない口調が僅かに震えて足元に伝染する。
「嫌なら待つよ。そうでないなら、大事にするから、緋衣子としたい」
「うん、」
声が喉から出たかどうか分からなくて、不安で、でももうなんだか、
……さっきからうんとしか答えていない気がするし、それ以上にこの状態が切なかった。
震える肺から溜息を漏らして、一度目を瞑った。
それから、頼まれたのを無視して振り返って、
机の脇を回ってソファの傍で膝を崩れるように折って、
触れられる前に私から顔を伏せて腕を幼馴染の首に絡めた。
何度か名前を呼んだのは掠れていてきっと声にもならなった。
自分でも今の気分がどんな感じなのか分からなくて、でも、涙が出た。
多分私もずっとこのところそういう意味で触れていたくて仕方なくて、やっとこうして意識することができて嬉しかったのかもしれない。
でもそんなのはどうでもよくて。
腕に力を込めてソファに彼を押し付ける。
「ひーこ」
髪を大きな手に梳かれて、呼ばれて、静かに抱き返された。
抱きしめられて髪を撫でられて、名前を呟かれてあたたかさにどうしていいか分からないまま呼び返す。
ぼうっと、震えそうな熱さに包まれて身体を寄せていると、ふと、空気がぶれた。
「ちょっと、顔上げて」
耳の脇でイトくんが呟き、腕を緩めたのでぼんやりと離れる。
顔を押さえられたまま、何度かキスをされて、段々と押し包むように唇を舐められ、中に割り込まれ、唾液が溢れた。
歯の裏をなぞられるように熱いものが口の中で蠢き、肩から腕までが弱く痙攣する。
おずおずと舌を突き出して絡める。
落としたままの睫毛が震えて、薄く開いてまた閉じた。
狭い口の中で別の肉が触れ合ってそれがイトくんのものだというのに、たまらなく心が震えた。
肘の先までが甘いものに浸されて、しがみつくのが難しい。
時間の感覚がなくなるままそうしながら、時折酸素を求めて離れ、そのたび別の人の唾液が舌の奥から喉を伝った。
いつの間にかソファに背中が埋まっていた。
頬から耳へと髪を梳かれて、絡められた舌が離れる。
下唇を弱く挟まれ、感触が喉のほうへ移るのに大きな息が湿った。
「イトく…、」
喉を吸われて声帯の機能が消えた。
制服越しに腕から、肩の上から、鎖骨あたりを撫ぜられて何がなんだか分からなくなる。
「少し、触るけどいい?」
答えも聞かずにリボンの脇あたりを大きな手に探られて喉が浅く喘いだ。
自分で足の奥に触れたときみたいな痺れが背骨を押し込み、肺を熱くする。
幼馴染の顔が首筋から肩に埋まると短い髪が頬から顎をくすぐったくなぜた。
「……ぁ、ちょっ、あの、」
「何?」
手が頬に戻り、触れるだけのキスをされ、覗き込まれて顔が熱くなった。
なんていう顔で見るのだろう。
目を逸らして、頬の骨ばった手に触れる。
そこから指で辿って腕時計を包んで、それから見返す。
一旦腕が離れて、彼が時計に目をやった。
そうして深く息をつくように笑った。
頬と耳に一度だけ軽く触れ、身体を離す。
「やっぱり、時間的に無理か」
朦朧と時計を見、六時を回っているのを確認して、小さく頷く。
「分かった。いきなりしてごめん」
優しい声だったのでなんだか切なくなった。
うん、とこぼして、皺になった濃色の襟に手を寄せる。
まだ息が途切れて声が上手く出なかった。
「ひーこがいいときに、今度、きちんとしよう」
「うん……」
やっぱり、うんとしか答えていない気がした。
馬鹿みたいだ。
私は幼馴染のいつしか大人になった肩に顔を埋めた。
そうして疼いたままの身体を抱かれて、細く溜息を漏らした。