その48
重い音が、かすかにして、チェーンがじゃらりと触れ合った。
私が手に取りかけていた傘は靴箱に寄りかかり、ゆっくりと倒れた。
ビニールの乾いた音が耳を通り抜けて、鍵を誰かが閉める。
イトくんしかいないけれども。
影と肩の脇で身じろぐ気配に顔を上げかけたけれど涙が出た。
まだ溢れるのが悔しくて涙を拭った。
彼がジャンパーからポケットティッシュを出したので使わせてもらう。
玄関脇のゴミ箱に捨てて、もう一度袖で目を押した。
狭い玄関は二人で佇むには居心地が悪くて、そんなくだらないことにも涙腺が緩んだ。
玄関が寒くて落ち着かないし、何か言わなくてはならない。
さっきの音は結構大きかったし痛かったろう。
足先に並ぶ数足の靴に目を落とし、何も言わずに靴箱に背を預ける幼馴染のねずみ色の靴を、見つめて、何か言おうと口を開きかける。
声が出なかった。
思っていた言葉も片端から脳の中で溶けて消えていく。
どうすればいいだろう。
それでもせめて顔だけでも上げようと、
――したところで遠慮がちに抱き寄せられた。
嫌ではなかった。
なのでそのまま濡れたジャンパーに頭を寄せた。
背中の腕が僅かに力を強めて、なのに彼らしくない弱い謝罪が何度も聞こえて、たまらなくなって腕を回した。
背中にそっと触れて布地を緩く握る。
古い壁紙に手の甲が当たり、指の隙間に水が伝って溜まった。
溜息が湿気に混じれて狭い隙間で溶ける。
においと体温がとてもあたたかく、首筋から伝わる脈がこちらの皮膚をさするような錯覚に沈んでは浮かんだ。
力もあまり入れずにただ二人でそうしていると、ぽたりと頭の上に水が落ちたので肩が弱く跳ねた。
……冷たい。
イトくんが小さく笑って、さっきと違う調子で一言謝る。
背中を掴む指先が無意識に緩む。
この人は本当に簡単にごめんなさいをありがとうを言うから、すごいと思う。
早く熱を測らせて温かいお茶を入れて、乾いた服に着替えてもらおう。
……私だって顔を、洗いたいし。
腕を緩めると背中の感触もゆっくりと離れたので、どちらともなくそのまま腕を放した。
自然に顎が上を向いて、見つめ合う。
彼の前髪からまた水滴が落ちた。
何度この顔をこうして見てきたろうと思う。
見上げて、兄さんを挟んで、弟を後ろにまといつかせて、後を追いかけるでもなくただ時折並んで歩いただけだ。
ただイトくんはいつでも笑って待っていてくれて、気まぐれのように手を引いてくれて、家族のようで家族であったことは一度もなく。
追いつくための一年の人生の差は途方もなく遠く思えた頃もあり、
……でも幼い指が小学生の学習帳を拾い上げた瞬間から始まったとすれば、
過ごした月日の数えは二人とも常に対等でしかなかったので。
その年月のどれだけが、この古くて愛しい小さな団地の隅であっただろう。
不意におかしくなって、いろいろな気持ちがゆっくりとかき混ぜられて、不思議と笑えた。
イトくんが和らいだ声で、名前を優しく呟くので嬉しくてそれが自然みたいに呼び返す。
「イトくん」
「ん?」
私は手を上げて、肩の濡れた布地に指を絡めて背伸びをして、少し無理だったけれどキスをした。
イトくんが背を軽く屈めて肩を掴んで、しやすいようにしてくれたので踵を下ろして長いこと続けた。
時々水がぽたりと落ちたけれど気にはならなかった。
雨音がどこか遠くでさあさあとカーテンを優しく覆おうとしていた。
――においがして、あたたかくて涙のせいか何もかもが溶けて流れてしまって、湿気が気だるいせいだろうか。
もう少し深くしたくなった。
僅かに唇を離して何度かするようにしたけれど、続きが良く分からなくて止まった。
薄くまぶたを上げる。
イトくんが肩に触れていた指先を僅かに震わせて、同じように薄目を開けた。
吐息の混ざる距離で私を見た。
その顔がなにをいうこともなく皮膚の裏から熱くするので、そのまま唾液を交わした。
電気のついていない玄関が薄暗くて肌寒い。
だというのに背中にまわった手のひらの温度は高かった。
段々と引き寄せられて深くまで貪られるのに舌先から濡れて、震えて、口の端から唾液が溢れた。
懸命に押し返してしがみついて彼の方を探る。
表面が擦れ合う度に息が湿って足の力が抜けていく。
喉から呼吸ともつかない声が漏れて、苦しいような気もするのにやめたくなくて、舌を絡めながら朦朧となる。
無理な体勢から服の上を探られるたびに水が落ちたときみたいに肩が動いた。
髪を弄られて首裏に指が入り込むと背中に温水を入れられたみたいになって痺れた。
「……っ、ぁ――」
涙が滲んだ。
足から完全に力が抜けた。
あまりもう続けられなかった。
唇がつと離れて、でも服を放す前に抱きとめられて、だけれど向こうも力が抜けたみたいだった。
足がもつれたみたいにお互いに玄関にゆっくりと崩れた。
背中に回されたままの腕が離れなくて熱い。
さっきとは違う意味で涙腺が緩んでいる気がした。
呼吸が荒くて苦しい。
近くにある顔が唇で目元に弱く触れてきて、それから頬に移って、耳に息がかかった。
思わず喉が痙攣して、身体が熱くなる。
……自分で今までしていたことが、この感覚と同じなのに気づかないわけもなくて顔まで火照った。
「……イトくん」
「一応聞くけど、おばさんは」
掠れた声が熱っぽくてでも熱を測ったらどうかなんてことにも中々思考が及ばなかった。
首を弱くかすかに横に振って、夕方までいないことを伝えた。
……私の声の方が泣いた後のせいかもっと掠れていた。
低い声が僅かに途切れて、三日前と同じことを言うので少し黙ってから、今度は首を縦に振った。
朦朧とした思考がはっきりしていくのは寂しくてたまらなかった。
このまま霧みたいな感覚の中で続けたかった。
だけど顔を洗いたかった。
目が充血しているだろう。
――それに一応、お風呂くらいに入れてあげないとこの人は間違いなく熱を出すだろうし。
そっと息を落ち着けて、深く溜息をついた。
玄関の涼しい廊下に触れた腿の裏がそれに応じて動き、滑るスカートはなぜか雨のようだった。