その12
今更のように中間試験の順位が発表された。
点数から予測はついていたけれど、前回よりもずっと下がっていたのに落胆した。
イトくんの方は、成績を判断する両親がいない代わりに、お母さんがいちいち食卓で聞き出している。
だからいやでも私との差が分かった。
そのたび「橋田くん、緋衣子ちゃんにも今度教えてあげてね」とお母さんが言うのがまたなんともいえずじくじくと堪える。
イトくんは曖昧に答えて、食卓の片づけを手伝っている。
足の怪我で手伝い免除の私は、それを横目に部屋にのろのろと戻った。
ドアの向こうに消える幼馴染の長身が、目の奥になぜだか残る。
私はベッドに倒れこむようにして、頭をうずめた。
――どうせ今日も、何も頭に入らないのだし、寝てしまったって。
「……それもやだなぁ」
鬱々とした気持ちで、溜息で枕を湿らせる。
それはそれで、イトくんのせいにして逃げているみたいで気分がよくない。
私は確かに、逃げているんだと思う。
あの人が頭がいいのは生まれつきだ。
そしてあの人の、数少ない大切な武器だ。
天井を仰いで、ふと三年前を思い出した。
三年前の今頃、いつものように寝間着姿の彼はうちのソファでぼんやりしていた。
「幼馴染なんて、そんなに甘くないものだよね」
流行の風邪にいともたやすくかかった幼馴染の高校生が、呟いたのを憶えている。
帰ってきた私をちらと見て、苦笑気味に言った目が、印象に残っていた。
弟は中学一年生で、兄さんはイトくんとは違う男子校に通っていた。
高校受験で部活もない私は、帰ってきて荷物をおいたばかりだった。
光るテレビには十年以上前のアニメ(再放送だった)が流れ、主役の男の子が幼馴染のヒロインを守ろうと決意する思い出のシーンが動いている。
「ふうん」
私はそのとき、当然のように兄さんのことだと思った。
だってこの人がうちに来たのも入り浸っているのも、ほとんど兄さんのせいだったからだ。
仲がいいのか悪いのか。
……高校が違っても続く友情にいいも悪いもないよなあと思った。
「でも悪いものでもないよね」
答える私に、彼はそうだね、と目を細めて笑った。
あの日も今のように、空の薄い七月の初めだった。
あのときのどこか申し訳なさそうな瞳を憶えている。
イトくんのようなれっきとした青年男子がうちに平気で出入りできているのは、彼が兄さんの友達だからとか、うちの両親と仲が良いからとか、橋田のおじさんに面倒を頼まれたからとか―それだけの理由ではないと思う。
私みたいな年頃の女子がいたら、普通はもっと警戒される。
もちろん、イトくんはいい人だし、うちにとってはもう家族みたいなものだ。
だけど世間的に見れば、彼の性格なんかに関係なく、片親で病弱で余所者でと、不利な部分はいっぱいある。
世間に通用するイトくんの武器といったら、やっぱり頭がいいことくらいなのだ。
そんなことくらい知っている。
分かっている。
兄さんが大学に進学できたのは、どんな学部でも必須になる英語の成績が急上昇したせいだ。
フランスから毎日のように送られてくる難解な英語メールに、むきになって返信し続けたためらしい。
私はたまたまではないかと思うけれど、お母さんは本気でお礼を言っていた。
イトくんは本当に教えるのが上手い。
私はあまり教わるのが好きでないけれど、兄さんと弟は彼に世話になりっぱなしだ。
お母さんがイトくんをお気に入りなのは、そのあたりが少なからず影響しているに違いない。
……でもやっぱりプレッシャーだ。
必死で二桁台に喰らいついている横で、余裕そうに一桁台の順位をキープされていると悔しいなんてものじゃない。
「あ、はい」
乾いたノックの音に気付いて、返事をした。
ちゃりと響くドアノブの奥から、幼馴染が顔を見せる。
「あれ……寝てたの」
「別に、寝てない。何?」
身体を起こして、乱れた髪を撫で付ける。
イトくんは予想通り、平気な顔で私を見下ろして言った。
「ひーこ、古語辞典持って帰ってきてたら貸して」
溜息が出た。
私はやっぱり彼の存在に困っているし、あの日のイトくんの言葉の意味もそんなに分かっていない。
だけど少なくともあの時から、イトくんがうちを、意識的にせよ無意識にせよ、生きていくうえで頼らなくてはならなくなってることは分かっていたと思う。
それを思い出して、不用意にこの前のことを聞けなくなってしまった。
踏み込みすぎて、それでこの人がうちに来辛くなってしまったら。
私がそれでどんな気分になるかは予想もつかないのでおいておくとしても、イトくんにとってはとても困ることだろう。
具合が悪くなっても、一人で暮らすには広い古マンションの隅で、たった独りで寝ていなければならなくなるかもしれない。
私は、そんなのは嫌だ。
長かった一秒間について、本当は聞きたくてたまらないけれども。
それであの人が来なくなるのは、もっと嫌だ。
逃げているのかもしれない。
だけど、それでも、やっぱり私は。
頬に落ちた短めの髪を耳にかけて、部屋を出て行く背中を黙って見ていた。
なぜか、少しだけ泣きたくなった。