その27
お寺の裏から海が見えた。
黄と白の束ねられた陰影と、冷たい御影石を伝う水の光が、目に残る。
汲んだ水にひしゃくをくぐらせる幼馴染の手つきは、滑らかだった。
海沿いの風が潮を含んで肌に涼しい。
明後日からお盆だ。
正午過ぎの眩しさの影に、海が隠れて視界から消えた。
お墓参りの他は特に用事もないそうだったので、散歩がてら、駅まで脇道を通っていく。
イトくんに言われて川沿いの裏道に曲がると、影の多い涼しげな場所に出た。
初めて訪れる小さな町は、暑い盛りの時刻だからか、驚くほど人通りがない。
軽く息をついて、脇を走る、川の飛沫に目を向ける。
隣でだるそうにあくびをする彼を見遣って、なんとなく、今は外国にいる橋田のおじさんを思い出した。
歩きながら横を見て、何気なく聞いてみる。
「イトくん、お母さん似でしょう」
「ぼく? いや、写真もあんまり残ってないからどうだか……」
建物の隙間から射し込む日光に帽子を被りなおし、イトくんは呟いた。
「ああでも、とーさんによれば、身体の弱さは母譲りらしいよ」
「ふうん」
「だからこれが形見」
光が目を射て、私は目を細めた。
自分を指差して薄く笑うイトくんには、何のてらいも影もない。
なんと答えていいのか分からなくて、ただ彼を見上げて数度、瞬きをする。
風が吹き、僅かに脈がぶれていく。
周囲に身体を心配されても、自分を貶めたりしないで、ただ当たり前のように感謝を素直に表して。
初めて会った小さい頃からずっとずっと、彼はそういう人だった。
なんとなく眼を伏せれば、足元の影がまた建物の陰に溶け、腕を灼く熱が薄れる。
川音が耳に優しく、長く伸びた雑草が時折靴に触れてちくちくした。
ふと思い当たって、また隣を見上げる。
「そういえば親戚のおうちとか、ないの」
隣の塀から伸びる枝に、蝉が止まって鳴き始める。
幼馴染は虚をつかれたように、一瞬怪訝そうな顔をした。
お母さんの方の故郷だと言っていたので、聞いてみただけだったのに、少し意外に思う。
彼は私を見下ろしたまま、顔を崩して困ったように笑った。
「あるけど……何年も行ってないな」
横の建物の換気扇から、むっとした食堂のにおいがして、後ろに消える。
そのせいか、違う理由からなのか、イトくんは気だるそうな息をついて、僅かに目を細めた。
「とーさんが不注意でね。おかげで風当たりが強いから」
え、と聞き返すと、頭を撫でて穏やかな声が言葉を続ける。
「だから。ぼくが不注意で、できちゃって、若かったし身体が弱かったものだから無理して出産したけど二、三年して亡くなって――それで、まあぼくはともかく、母さん側の親戚筋にはとーさんの評判が悪くて」
又聞きだけどね、という声を聞きながら、私はしばらく黙った。
雲が太陽を隠して、建物の影で涼しかった道が、周囲に紛れて薄くなる。
澄んだ川音が土手を流れ、高い空に消えていく。
「私はおじさんすごく好き」
イトくんが疲れた笑みで、ありがとうと呟くのを横目で見る。
この様子では、座った方がいいのではないだろうか。
軽く肩を竦めてイトくんが独り言のように話すと、蝉がうるさく鳴きだした。
「……結局父方も似たようなもので、どうもね。別に好きで結婚したんだからそこまで気にすることもないだろうに」
私なんかじゃ何をコメントしていいのか分からなかったので、答えずに見つめた。
お盆をわざわざ外して、お母さんのお墓参りにひっそり来ては帰るのも、今更ながらに思えば、病弱な一人暮らしの彼を誰も一度も見舞いに来なかったことも、修学旅行から帰されたあの時だって、なんでおじさんの次に連絡が来るのが、赤の他人のうちだったのか、とか。
風に吹かれた髪もそのままにして見ていたので、目に髪が入る。
イトくんが指を伸ばして目端の髪をすくい、耳にかけてから、ふと含みのある目で笑った。
「……大丈夫だよ、反面教師にしてちゃんと気をつけるから」
「……」
何を、と、聞き返しかけた瞬間に気付いてやめた。
顔の熱さに、目を逸らして少し離れる。
そこでなんでそういう話に飛ぶのだろう。
夏草の青を拭き流して、薄い潮のかおりがした。
ぎらつく太陽を背に隠した雲の白さに、目がくらむ。
幼馴染が後ろで名前を呼ぶので、雲を仰いだままで答えた。
「なに」
「ごめん怒らないで」
相変わらずの余裕に呆れて、振り返りながら深い溜息がでた。
そして何かを言おうと口を開いた瞬間、――さらりと髪を梳かれた。
呼吸と一緒に、足が止まる。
そのままじりじりと撫でるように頬に手が滑り、指先が耳を辿ってくすぐる。
いきなりのことによく分からなくなって、身体が火照りだす。
「……ちょっと、待っ」
「ひーこ」
昨日みたいな深い声で、呼ばれて、一瞬で言葉を失った。
こういう目で触れられると弱くて、心臓が引きずり出されるみたいで怖い。
イトくんが、顔を寄せて耳元で囁いた。
熱に浮かされたような掠れ声に、僅かに残った反抗心がじりじりと灼けて灰になる。
聞いてからなんて、怒れないから、ずるい。
顔を抑えられたまま、視線を動かしたけれど誰もいなかったので頷くと、触れるだけのキスをされて、彼が離れた。
あたたかさと同時にせりあがるものに戸惑いながら、朦朧とする。
私は平均身長で、彼は背が高いので、なんだか、し辛いように思う。
……足りなく思ったもどかしさは、きっとそのせいで。
半ば無意識に、離れかけた頬の手に、指を重ねた。
夏の空気の中で、触れ合った肌から滲んだ汗が溶けて混じり、そこから茹だるような暑さが広がる。
なぜだか離したくなくて、そのまま緩く頬に押し付けた。
その手に言葉を押し隠して、胸のうちで湧き上がる衝動に蓋をする。
きっとこれを言ったら、おかしいと思われる。
――昨日の、あの熱さを恋しいと思ったのは多分、気のせいで、だから。
そうしていると、髪から彼の手が静かに抜けて、緩く指先が絡んだ。
鼓動が余計に私を震わす。
理性はもう離さなくちゃいけないと、分かっているのに。
ここは道端で、人がいない裏道だけれど、そこまで狭くもなくて対岸に誰かがいたら当たり前のように見えるし。
「イトくん」
「ん」
答える声の低さと小ささが空気の振動になって身体に届き、鼓膜にしみる。
口に出かけた言葉を必死で飲み込んで、別の言葉で熱を逃がす。
「…好き」
「そう」
降る声が、本当に嬉しそうだったのに、何かが焼き切れるような気がして、その前に手を握ってからそっと放した。
蝉がうるさい。
……私も早く、涼しいところで座りたいと思った。