その22
私が幼稚園生のとき、「はしだ」くんが家に来た。
"来た"というより、兄さんに"連れて来られた"といった方が正しい。
最初、二人はものすごく仲が悪かった。
暇さえあれば殴ったり蹴ったり物を投げたりで、今考えると相当近所迷惑だったろう。
きっかけはいつも兄さんの一言で、喧嘩(一方的なのでそう呼べるかはともかく)の勝敗はいつも決まっていた。
毎回、終わった後はお母さんにがみがみと叱られた兄さんが、イトくんを病室に引っ張っていく。
弟が小さかったので、それは大抵私の部屋だった。
子供心に迷惑だなあと思っていたけれど、巻き込まれたくないので黙っていた。
そんな日常も、それなりに楽しかったように思えるから不思議だ。
夕方近い曇り空を見上げて、記憶をたぐる。
こんなに早く、自分達が変わっていくなんて知らなかった。
涼しくなりだした高校からの帰り道を、ぼんやりと歩く私に蝉の声が降る。
回復し出した頃にまた喧嘩、さらにまた喧嘩と、そんなことばかりだった気がする。
だから仲が悪いくせにいつもイトくんはうちに来ていた。
いつの間にか二人は仲良くなってしまって、"喧嘩"はいわゆる"どつきあい"みたいなものに、変わったのだけれど。
兄さんは、イトくんに、子供の無邪気さで何を言っていただろう。
信号を待ちながら、かばんを持ち直した。
微風が頬をくすぐっていく。
橋田依斗くんが片親で余所者、というのを、本人から聞いた記憶が私にはない。
だったらそれは、噂やよくない話題の中で、幼い私の知識に刷り込まれていたものなのだろう。
思い出せない風景を想い、ふと考える。
――私も、あの頃どこかで無意識に、彼を傷つけたりしていたのだろうか。
お父さんの出張に加え、弟が合宿に行ってしまい、家がなんだか静かだ。
重い扉の金属音が、いつもより大きく聞こえる。
玄関に上がって靴をそろえようと腰をかがめると、サンダルの他には幼馴染の靴しかなかった。
腕時計によれば六時前だ。
そろそろ、お母さんも帰ってくるだろう。
鍵をかけた後も、なんとなく玄関に佇む。
声もしないし出てもこないということは、寝ているんだろう。
溜息をついてかばんを持ち直し、居間までの短い廊下を歩く。
床に、電話の子機が投げ出されていた。
つけっぱなしの扇風機が数秒間だけ、髪をなぶる。
居間のテーブルには化学関連の書物と参考書が乱雑に広げてあった。
洗濯物は取り込まれて窓際に積んである。
立ち止まってから、また少し歩いて子機を拾った。
穏やかな寝息が聞こえているのに気付いていた。
電話を元に戻して、ソファの幼馴染を振り返る。
雨の名残でまだ雲がかかる空から、うっすらとした西日が部屋に射していた。
薄らいで見えるその人を、無言で見つめた。
荷物を足元に置いて、音を立てないよう床に座る。
珍しく、熟睡しているようだった。
絨毯を取っ払った夏の床が固い。
時々扇風機がこちらを向いて風を送り、またゆっくりと回っては彼の上をなでていくのが妙に涼しげで、変な気がする。
夏服の背には薄い陽射しがあたたかかった。
五分くらいそのまま、イトくんを見ていた。
いくら風が来ても、見ているだけで体温が上がるようでこそばゆい。
毎日帰るとここにいてくれるのは、顔が見られるのは、嬉しかった。
嬉しいのに。
同時にどこかが沈んでいて、氷みたいに冷たかった。
愛してるよ、とか冗談のようにさらりと言った次の日も。
一緒に帰るのを楽しみにしている、という静かな一言の次の言葉も。
模試に行くはずだった日曜日の、たった一秒の時間や、先週の長い長い夜の数十秒間の、後でさえも。
あの人は、前とちっとも変わらない。
何もなかったかのようにされると、わけが分からないだけじゃなく、苦しい。
気まずさのない態度を取られるのに最初は安心していたのに、今は反対になってしまった。
床に眼を伏せて、舞い上がる埃を眺める。
何も知らなくたって、もしかしてこの先進路が分かれるかもしれなくたって。
別に私の気持ちが変わるわけでもない。
夏で気分の悪そうな寝顔を机越しに見つめ、小さな息をつく。
制服だけでも着替えよう。
思いながら、立ち上がって、数歩歩いた。
そしてなんとなくソファの前に腰を屈めた。
近くで見る身体は湿気に少し汗ばんでいて、前と同じにおいがする。
呼んでみたけれど、返事がなかった。
手を伸ばして肩に触れる。
指先がじん、とした。
「…イトくん」
熱いままの手の平を引っ込めもう一度声をかけると、少しの間があって、彼の目がうっすら開いた。
「風邪引くよ」
「……おかえり」
寝起き特有の声が、妙に嬉しそうに言う。
「ただいま…」
心臓が変な音で鳴るものだからどうにも困った。
声もか細くて、妙に居た堪れない。
急いで話題を探した。
「電話あったみたいだけど。誰から」
「ハル」
ぼそっと呟いた年上の幼馴染は、不服そうに目を逸らした。
何度も聞いたことのある口調だったのですぐに合点が行く。
それで子機が投げ出されていたのだろう。
「喧嘩したんでしょう」
「……喧嘩じゃないよ」
不意に視線が向けられて、脈がぶれた。
読めない表情が、静かに私を仰いで、まばたきをする。
ふうと溜息をつくと、イトくんは苦笑した。
「叱られたんだよ」
「ふうん」
なにを叱られたのだろうか、逆は珍しくないのに。
夏休みの宿題を手伝わされたときとか。
「あいつは決断力と行動力だけはあるからね…まあごもっともだったんだけど」
面白くない、と顔が言っているのに、なんだかおかしくて顔が微笑った。
悲しいことも多いけれど、ほんのりと嬉しくなる瞬間も、とても多くて。
この人が傍にいると心地いい。
……でも、と勝手な期待を抱えて思う。
通り過ぎたたくさんのきっかけが、冗談ではなく、意味のあることで。
イトくんにとって、私もそれくらい影響のある人であったらいいのに、と思う。