その17
油の沸き立つ台所の音が、扇風機に涼しい。
櫓の設置だけでいったん帰ってきたお母さんが、夕食の準備をしている。
居間のソファに寄りかかって、私は眠気の襲う頭をゆっくりと倒した。
夕食まで、少し寝よう。
眠って、明日になれば、イトくんが帰ってくる。
―― 夢を、見た。
幼稚園くらいの幼い指が、大きめの学習ノートをもっている。
緑色の表紙には、漢字が四つ。
ひらがなではないけれど、きっと、これはなまえだろう。
三文字目は、多分読める。
その次は、と考えていると、「きたはんきゅうのせいざ」がわきの壁に貼ってあるのが目に入った。
ポスターのなかに偶然同じ漢字を見つけて、ふりがなから四文字目の読み方を知る。
じゃあ、あの知らない人のなまえは――
開けっ放しの窓から吹く風に、細い髪がなでられている。
ベッドに寝ている小学生は、小さくて弱くて、あちこちに痣と擦り傷と血がついている。
お兄ちゃんの知り合いらしい。
うちの下でばったり出会い、なぜかその場でつかみ合いの大喧嘩になり、その最中に突然動かなくなってしまったらしい。
熱の高さにあわてたお兄ちゃんは、この人のうちをまだ知らなくて、とりあえず四階まで引きずって連れてきたのだ。
意味がわからないけど、多分お兄ちゃんが悪いのだろう。
はしだというのはやっぱり名字で、最初の二文字の読み方なんだろうか。
緑のノートを、さっきお兄ちゃんが放り捨てていったランドセルに元通りしまって、他にもこぼれていた教科書や筆箱をそろえて流し込む。
絨毯が小さい膝小僧に柔らかい。
まだ自分が持てない「ランドセル」という小学生の証のようなものに触れた幼い手は、泥と血とでなんだか黒くよごれてしまった。
弟に揺り動かされ、目が覚める。
「姉ちゃん。メシ」
「……ん」
肘をずらして、頭にかかった腕をどけると蛍光灯が眩しかった。
食卓には珍しく帰って来ているお父さんの分を含めて、三人分のお箸がある。
お母さんはまた、手伝いに出かけていったようだ。
弟は夏祭り帰りらしく、小学生でもないのに光る腕輪をつけている。
今日は、本当に、家族だけの食卓になる。
久しぶりのことだ。
だってイトくんは、今頃東京にいる。
天井の光がとても白く明るく、目にしみた。
「緋衣子、起きなさい」
お父さんの声に黙って頷いて、手首で目を擦る。
妙にお父さんと享の口調が似ているなあと頭の隅で思った。
お父さんは白髪が増え、弟は背が私より高くなった。
いつの間に、こんなに月日が経ったのだろう。
扇風機の風に、シャツの裾がめくれて軽く膨らむ。
東京にいる兄さん達は今、どこでなにをしているのだろう。
数学の応用問題を解き終えて、壁時計をふりかえる。
夜も深まってきたので、勉強を切り上げて電気を消す。
蒸し暑い空気の中でタオルケットにくるまり、指先をぼんやりと眺めながらうつらうつら、襲う眠気に身を任せていると、目蓋が重くなってくる。
いないことに、寂しさみたいなものを感じるのは、初めてのような気がした。
一年間いなくなったときもほとんど気にはならなかったのに、不思議だ。
心のどこかで、なにかを、思った。
それが頭の中で形になるよりも先に、私は静かに眠りについた。
連続した電子音で目を覚ました。
カーテンが閉まって薄暗い部屋にも、居間からの音が届いている。
身体をよじって、時計を見ると昼過ぎだった。
信じられない。
ということは、今日の昼は家に誰もいないはずだから、電話に出なければいけない。
がばり、と上半身を起こして、ベッドを飛び降り、寝間着もそのままで居間に出る。
案の定がらんとしているテレビの前を横切って、ひったくるようにして子機を取り上げた。
昼過ぎで明るい窓際の床に、裸足の足裏が少し熱い。
鳴り続けていた電子音が、手の動きと同時に切れる。
そのまま電話に出ようとして―なぜか、一瞬、手を無意識にとめた。
理由は、きっとなかった。
すぐに気を取り直して、白い受話器を耳に押し当てる。
息を吸って、電話線の先にいる誰かに、ゆっくりと応える。
ベランダに通じる大窓の向こうに、夏空が青く白く、ゆったりと広がっていた。
「はい、もしもし――崎ですが」