その49
白いマットに水滴が落ちて、ふと、ボタンを留めるのを中断した。
どうしてか幼い頃の情景が目に浮かんだのだった。
なんであんな幼い頃のことを思い出すのかよく分からない。
あの時も玄関で泣いていて、「うちで預かっていた近所のお兄さん」が傍にいた。
気分的に下着だけは綺麗なものに変えた。
お風呂場の隙間から湯気が漂ってくる。
靴下と下着だけ洗濯機へ放り入れ、服を元通りに着込んだ。
溜息を沈ませてタオルをすくう。
聞かれて初めて私も身体は洗っておいたほうがいいとか、そういうことに気づくのだから困ってしまう。
脱衣所を片付けて、換気扇をつけたまま裸足で玄関を覗いた。
避妊しなきゃだめだろうと現実的なことを思い出させてくれた幼馴染はさっさと家に引き返してなにやら取りに行った。
ご両親の話に、反面教師にして気をつける、と付け加えて草の隣で笑っていた影を思い出して、鍵と傘だけ貸して玄関で送って、それからシャワーを浴びたのだった。
スニーカーがあってジャンパーも傘も置いてあった。
かけ忘れのチェーンを右手でいじる。
さっきは夢中で気づかなかったけれど左手の怪我は僅かにじんと痛んでいた。
絆創膏を貼っていくのもどうかと思うので、血が出ていないことだけ確認してタオルを廊下にかけておく。
雨はいつやむんだろう。
「ひーこ?」
後ろから呼ばれて玄関と逆を眺めた。
振り返ったけれど見えなくて、居間の方に向かうと私の部屋の前にいた。
立ち止まってから、また近寄る。
見上げると少し心臓がはやまる。
「…おかえり」
「うん。いいかい」
「イトくんも、身体は大丈夫なの」
社交辞令みたいだなあ、とイトくんが苦笑する。
風で僅かに建物が軋んだ。
私はそこまで余裕がないので、なんだか悔しい。
「あの」
「ん」
「あんまり知らないから、私」
……声が震えているのは隠せているだろうか。
「うん。嫌になったら言いなさい」
頭をなでる手が、あたたかくて黙って頷く。
イトくんの声が聞き逃しそうにささやかだけれど確かに硬いのは、安心したいための錯覚ではないように思えた。
そうだといい。
小さな部屋に踵をそろりと踏み込んで後ろ手で閉め、薄くカーテンのひらめく小窓を見上げた。
ガラスの向こうを水滴が伝い、昼だというのにそれだけでも薄暗い。
イトくんが肩越しに窓際へ歩いていき、カーテンを閉めて鍵を確認した。
でも、真っ暗というわけにはいかなくて電気がつかなくてもイトくんのことが見えた。
いつも部屋に邪魔しに来るときみたいに、傍にいるけれど意味が全然違った。
どうやって毛布を剥いで、シーツに座ったのかは曖昧で、そうしていると気づくまで思い出せなかった。
狭い部屋だから歩くまでもなかっただけで、ただ二人分の重さで軋んだことだけが記憶の底でさらわれず残った。
しばらく、触れ合いもせずに、向かい合って座っていた。
時計の音だけが雨音に邪魔している。
それからイトくんが静かに屈んで頬に触れた。
腰の下で柔らかい枕が僅かに形を変えて、それよりも柔らかい唇の触れ合いで気持ちが緩々とほぐれた。
さっきまであんなに深くまで食みあっていたのにこれだけなんて、どこか不思議ででもとても自然だと思った。
手を伸ばして触れる。
私と違ってシャツの下は何も着ないでいるのか、布の下で男の人の少しかたい肌の感触が手にじわりと伝わって、そこからゆっくりとイトくんに満たされていく。
睫毛を緩く浮かす。
視線が間近で吸い付いて絡んで、もう一度唇が触れ合う。
こちらの動きを遮るように私の顔をそっと引き寄せて顔のあちこちにキスをしだした。
ゆっくりゆっくり、確かめるようにそうするので心地よくなって腕を回して引き寄せる。
耳に息がかかって試すみたいに濡れた熱いものが一度だけぞろりと触れて、一瞬背中が震えた。
「あの、それ」
「分からないから、嫌なら言って。努力する」
いったんやめてそれだけ囁いて、また耳に顔が埋まった。
嫌ならやめる、と言わないのはいつもの幼馴染らしくない。
でも耳元で直接届くのは聞き間違いようのない人の声で、だから、答えも思いつかずに私もただ触れ合う体温に手を寄せて、心もち大きくなる息で彼にできるだけ身体を寄せた。
密着した下の方にそれらしいものが当たるのも恥ずかしいのかよく分からなくて、変になっているのが私だけではないのだということくらいしか意識が及ばない。
しばらく耳を味わっているので、何がいいのだろうとぼんやり思いながら浅い息で膝をずらす。
この前みたいにそれから首筋にまで丁寧に舌が降りて、髪がくすぐったいのも変わらず、だから今度はそのくすぐったい髪の中に私の手を埋めた。
膝立ちのままだと少し無理な体勢になってきたので腰を落とした。
ベッドがきしりと唸った。
身体の線にそって丁寧に丁寧に面積のあるものが移動していく。
布越しなのに自分で足の間に触れたときより何倍も体温の上昇が早くて広い。
気がつくと喉から感触が消えていた。
影ができて、顔を無言で覗き込まれたと思うとまた唇が包まれて、軽く吸われた。
それをやめて欲しくなくて頭に回した手を自分で引き寄せて、私からぎこちなく唇を舐めてみて、もう一度、もう一度そうした。
舌先を触れ合わせて、またしばらくゆっくりと口の中を味わいあう。
……唾液が甘い。
途切れたところでイトくんが無意識のように呟いたのはまるで、私の名前ではないみたいだった。
「イトく……」
呼び返す私に目を伏せて、また無言で鎖骨の下まで唇が移動する。
唾液が擦り付けられて襟元が湿っていく。
それから吸われる。
手が下のほうへ伸びた。
スカートの上を撫でられるので自然に視線が泳ぐ。
意識がとろとろとして、曖昧な痛みだけが左手から脳髄を押し続けていた。
柔らかい刺激に背が傾いで指をついて体重をかける。
左手だったので痛みに軽く顔を歪めた。
右手で縋りついたまま、支える手を交換しようと身じろいで呼ぶ。
「あの、待って」
「ん」
あたたかい感触が遠ざかって消えた。
衣擦れた余韻がふわりと膝にかかる。
影がかかったので覗き込まれていると分かった。
「痛そうだったけど、怪我した指かい」
「うん、ちょっと」
「見せて」
取られた手を持ち上げられるので、中途半端だった体勢を起こした。
医療関係に進みたい身として気になるんだろうか。
なんとなく気持ちが静まるのでされるままにしておく。
――と前触れもなく、
傷口を舐められてひくりと腕が怯えた。
「……っ、」
そのまま気遣っているのかなんなのか、口に含まれて舌で遊ばれて意味が分からなくなる。
でも気持ちよくて空いた右手で縋って、解放されるのを待ちながら目を瞑ってシャツに埋めた。
イトくんの肌も熱くて、霞んだ視界で喉が脈打っているのも分かるけれどそんなのは感覚を和らげるためになんにもならない。
小さい窓を風がかたかたと揺らしている。
身体の端からこんなふうに別の存在に浸されて塗り替えられて、熱い意識が朦朧としていく。
どれだけ経ったのか、解放されたかと思うと、優しくなでられて薄目が開いた。
風が弱くなって、鼓膜を雨が染めかえる。
「服脱いでもらっていい?」
血の上ったままの顔で、ぼんやりと心臓の音を聴く。
言葉の意味が意識に沈むまではしばらくあった。
脈がとくとくと聞こえて指の中で彼のシャツが皺を増す。
頷いて、イトくんを見上げて腕を緩め、どうしようか迷ってからそのままボタンを外した。
いつもなら簡単なことが、着慣れない服だったからというのを差し引いてもありえないくらいの時間がかかった。
五つめのボタンまでを外すと、前が僅かにはだけた。
少しだけ肌寒い。
袖を抜いて、膝の上で小さくたたんだ。
そこで手が自然と止まった。
近い視線が動かないで集中しているのを感じる。
無性に、見られているのが恥ずかしくなった。
「後ろ向いてて」
イトくんがあからさまに残念そうな顔をした。
でももうここは譲らないでとりあえず後ろを向いてついでに彼にも脱いでもらう。
ちらりと見るとズボンは脱いでくれていなかったので、私もとりあえずスカートはそのままにしておいた。
微妙に格好悪いような気がするけれど、なんだか不公平だし。
……でも考えてみたら、また脱いでといわれて同じようなことをするのだったら、今脱いでいたほうがいいのかもしれない。
思いなおして後ろのファスナー部分を前に回した。
スカートの裾を広げてファスナーに指をかける。
降ろしてから足をそっと抜き、たたんで、ベッドの脇に重ねてそろえた。
下の薄布が濡れている気がしたけれど彼の傍で確かめることもできず、意味もなく溜息を漏らす。
こちらを見るのを待ちながら、まだ外していない下着をどうしようかなあと肩紐に指を掛けてみる。
どれくらいの大きさがいいものなのだろうとか、気にしたこともないことを脈のはやさを誤魔化すように考えてみたりする。
イトくんの背中は細かった。
肩も広くなく、兄さんや弟のようにしっかり筋肉がついているわけでもなく、だけど依斗くんだった。
私から触ったら嫌だろうかと思い、でも、私が触られても嫌ではないし、などとつらつら思う。
振り返らないまま声がやっとかかったので、思考を中断した。
「もう見ていい?」
「いいよ」
幼馴染が肩越しにちらと振り返ってから、身体ごとこちらに屈んだ。
何も言わなかった。
指先だけで裸の肩へと静かに触れられた。
下着の肩紐を指先で弄られて、僅かに胸が擦れる。
空気を浅く喉が欲して口がからからに渇く。
遮るものがない肌同士がこんなに熱いとは思わなかった。
低く掠れた吐息の方も僅かに荒い。
シーツが心なし膝下で湿り気を帯びている。
肩の線を確かめていくように撫でて腕まで指が伝っていき、それから私の指に骨ばったそれが重なった。
どちらともなく震えて指を一本ずつ絡めあい、シーツに押しこむ。
「あ、これも外してくれると助かる」
肩紐をもう片方の手で軽く引かれて、僅かにその緊張が緩んだ。
何秒間か時計の秒針が聴覚に戻る。
混じれて穏やかな口調が囁いていた。
「なんで?」
「外し方分からないし」
イトくんがこういうことを始めてから初めて、
薄暗いカーテン越しの昼の雨だけを灯りに、肩を竦めて小さく笑った。
息が止まった。
そ。
――そこで、笑うのは、だめだ。
……だめだ。
私がだめなのだ。
耳の裏まで熱くて上手く顔が見られない。