目次

Scarlet Stitch

本編+後日談
本編 (*R-18)
Extra
番外編
🌸…本編ネタバレあり
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EXTRA / 3-(2)

街灯がちかちかと、薄暗闇を黄色く照らす。
お母さんには、夕ご飯を食べてから帰ることにしたという言い訳で、予定よりも一時間遅い電車に乗ることになっていた。
実際にご飯を食べている時間はないので、コンビニで適当なおにぎりを買っていく。
おまけにと買ってもらった手袋が温かくて、手はつながずに肘を触れ合わせて隣を歩いた。
駅へ向かう線路沿いの飲食街には騒がしい学生たちが行き交っていた。
すっかり日が落ちた雪混じりの風に、仰ぐ曇天は地上の光を映してほのかに明るい。
春彼岸まではあと少しだけれど、マフラーはまだしばらく手放せないだろう。
それでも確かに、あと一ヶ月そこそこで春の風に変わるのだ。
私が引っ越してきて、二人でまたこの道を歩く頃には、桜の蕾も膨らみはじめているかもしれない。

春先でもまだ枯れ葉が残っているのだと、駅前の並木で、足元のささめきに耳を澄ます。
傘を閉じて見上げた駅の灯りは、なぜだかひときわまぶしかった。

枯れ枝が、弱い風に揺れている。
人もまばらで、流れる空気が涼しかった。
改札前で、名残惜しい指先をどちらともなく絡めて、立ちどまる。
「あのね、緋衣子」
「なあに」
持ってくれていた鞄を受け取りながら顔をあげる。
知らない街で見るイトくんは、それでもここで会ったばかりのお昼頃よりも私の知っている人だった。
もう、高校生ではないし、ただの幼馴染でもないけれど。
暗い道のりを送ってくれて冷えた髪を撫でてくれるのは、やっぱり、十年以上も傍にいてくれた、私の手を引いてくれた橋田依斗くんだった。
「今日は久しぶりで、嬉しかった」
「……うん」
「ずっと触れなくて辛かったよ」
軽く身を屈めて聞こえないくらいの囁きで、外だというのにそんなことを言われた。
絡んだ指が弱く震えたので、力を込める。
こんなところでそんなことを言わないで欲しいと、理性では思っているのに嬉しいのだから私もきっともう駄目だ。
「緋衣子は?」
「………」
だから分かり切っていることをいちいちそうやって、聞かないで欲しい。
黙って頷いた表情がどうしても緩んでしまって、弱る。
イトくんがおかしそうに笑って目を細めた。
「まあ、辛かったけどその分いろいろ聞けたし、……たまにだったら、我慢するのも悪くはないね」
「いろいろって――」
聞き返した瞬間、質問を間違えたことを自覚する。
私が言ったことに決まっていた。
「『だから、なにしてもい』」
「いいよ言わなくて」
遮るのを見越していたらしく、心底楽しそうに笑われる。
なんなんだろう、もう。
肩を落として溜息をつき、資料だらけの鞄を、持ち直す。
帰ったら貰った書類をいろいろ書いたり調べたり、しなければならない。
学校にも行かなければならないし、引っ越し前の買い物もある。
普段より長い春休みに思えるけれど、その分やるべきことはたくさんある。
浮かれてばかりもいられないのだ。
「…じゃあ、引っ越しは再来週だから」
「うん。引越しでも準備でも。手伝うことがあればなんでも言って」
私の「ありがとう」を、聞いていないのか一瞬口を噤んで、それからイトくんが少し意地悪そうにこちらを見つめた。
「なに頼んでもいいよ」
「………」
もう好きに言っていればいいと思った。
何度これでからかわれるのかと思うと、深く深く溜息が出る。

でも、まぁ。
本当は、そんなに気にしてもいない。
この人にからかわれるのも、おかしくなってしまうのも。
――恥ずかしいけれど、依斗くんなら、嫌じゃない。

俯いたまま、なんとなく笑う。
コンクリートの汚れが気になったので、鞄を靴の間に挟むように置いた。
それから両腕を目の前の人の、背中に回してコートを握り、無言で額を胸に埋める。
一拍だけ間があってから、大切な腕が静かに抱き返してくれた。
大切な人のにおいを身体に沁み込ませ、名残りのぬくもりをもらう。

知らない気持ちや感覚が時々、怖いこともある。
通り抜けた先にあるものが予想できなくて、冷たい風の先に続く空の色を信じられなくなったり、綻ぶ蕾から目を逸らしたくなったりもする。

――それでも。
この人が好きだ。
きっと、肌のぬくみを知る前よりもずっと好きだ。

だから、恐る恐るだとしても、あたたかな手を離さずに一緒にいようと思う。

私から先に腕を緩めて、溜息をつく。
こんなことを駅の中できるようになるのだから、人を好きになるとからだどころか心も変わってしまうらしい。

それだって、ひとつの新しい花の蕾だ。

このままこうしていたい気持ちを離れる体温にそっと預けて、足元から鞄を拾う。
「じゃあ」
「うん、気をつけて。おばさんにもよろしく」
「今日、ちゃんと温かくしてね」
「はいはい」
改札向こうでイトくんが余裕気に笑って、手をあげる。
最後にもう一度手を振ると、電光掲示板を確認してから、三番線の階段を下りていく。

故郷へ続く二両電車に乗り込んでボタンでドアを閉め、見渡してから席につく。
電車の乗客はまばらで、足元の暖房は暑かった。
水滴の付いた窓越しに、暮れなずんだ街の灯を見る。
別れたばかりでもう会いたくなっている自分がおかしかった。

でも、きっと、イトくんの言葉を借りるなら。
――それもたまには、悪くない。

緩む頬でそっと、息をついて鞄を抱いた。
窓に映る自分の顔と、透けて見える雪空に、気だるいからだを預けてガラスの色を白くする。

春は近く、舞う雪と冷たい風をくぐり抜けたその先に、新しい生活が待っている。

そんな期待に、笑いながら、電車に揺られて目を閉じる。

タイトルは、↓の諺から取っています。
March winds and April showers bring forth May flowers.
(3月の風と4月の嵐が5月の花を咲かせる)
こうして春は何度か巡り、本編はその50に続きます。

本館の10周年記念企画でリクエストをいただきました。
お読みいただいたすべての方へ、深い深い感謝をこめて。

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