その14
半分まどろみながらベッドに座り込む。
僅かに残った理性で手放さない英単語集を開いて、私は大きくあくびをした。
暑さで体力が減りやすいせいかここのところやけに眠い。
時計を見るとまだ九時で、眠るにはまだまだ早かった。
いっぱいに開いた窓から、涼しい夜気がしみこんで肌に触れる。
こんな中で遅くまで部活をやる享の気が知れない。
と言ったら、そんなにガリ勉する姉ちゃんの気が知れないと言い返された。
受験生が勉強して何が悪い、と思ったけれど黙っていた。
もともと、私は頑張る他に何もできないのだ。
好きなことも我慢できないで、どうやって私くらいの頭で志望校に入れるんだろう。
今だって、やってもやっても結果は手からこぼれていくばかりで、焦れば焦るほど自信はどんどん磨り減って、既に数値は零より下になった。
私は、あの人みたいになれそうもない。
天井を仰ぐと、古い染みが蛍光灯に照らされて焦げ色をしていた。
――いつも、あれを熱に浮かされながら見上げていたんだろうか。
修学旅行で熱を出して、途中で強制送還されたような日にも、この部屋で。
無造作なノックの音がした。
答える前に乾いた音でドアが開く。
「いつ起きたの?」
夏負けして居間で寝ていたはずの幼馴染が、顔を覗かせていた。
私の声に無言で肩を竦めて、そのまま部屋に入ってくる。
単語集をとりあえず閉じて、彼を見上げた。
「何。夏休みなんだから辞書は持って帰ってきてるんでしょ?」
「うん、辞書じゃないよ」
何が楽しいのか、イトくんが満足そうに笑う。
そしてこちらに寄ってくると、ベッドを指先で示した。
「座っていい?」
「……いいけど」
「ありがとう」
イトくんが私がいるのと逆の端に、無造作に腰を下ろした。
重みで僅かにベッドが軋む。
イトくんの細身に、薄い墨色のTシャツが似合っている。
ふと、ここしばらくの不可解な気持ちになった。
空気が薄くもないのに、なぜか少し息が詰まる。
緊張しているのに似た気分だ。
イトくんは、しばらく黙ってからちらりと私を見て、眉を上げた。
そして天井を見上げた。
……何が言いたいんだろうか。
眉を顰めて様子を伺っていると、イトくんは急に思い出したようにこちらを振り返った。
「ああそう。ひーこ、東京は明日から行くから。お土産は東京ばななということになってるからね」
「ふうん」
誰の要望だろう、お母さんだろうか。
まあ、お土産なんてなんでもいいけど。
「どれくらい行くの」
「そんな長くないよ。二泊くらいかな」
「東京はここより暑いと思うけど」
何気なく言うと、幼馴染は妙に嬉しそうに目尻を下げた。
「お、もしかして心配してくれてるのかな。いやいや嬉しいね」
「……」
相変わらず意味不明だ。
溜息をついて、膝上の単語集を枕元にのける。
「してないわけじゃないけど。外国で一年間やれたんだから、それくらい大丈夫なんでしょ」
「……そうだね。自信はついたかな」
「行ってらっしゃい」
イトくんはふと目を細め、ゆっくり頷いた。
微妙な沈黙が落ちてくる。
窓から入る風だけが涼しい。
この人はどれだけの広い世界を見ているんだろう。
居間にかかっている風鈴が、ドアの向こうで遠く小さくかそけく響いている。
高く澄んだ音が、耳をかすめて消えていく。
肺の中が、ざわついた。
「イトくん」
「ん?」
話しかけたものの、何を言っていいのか分からなくて私は俯いた。
行き詰っていることとか、相談してみたってどうなるわけでもない。
私が頑張っても上手く行かない理由を、この人に聞いたって、悲しくなるだけのような気がした。
俯いた顔の下に影がかかったかと思うと、不意に頭に手が乗せられた。
上体が、重さで少し沈む。
狭い視界に、いつの間に隣に来たのか、薄墨色の生地が見えた。
頭上から、苦笑気味の声がした。
「おまえはね。力が入りすぎ」
イトくんの声だった。
他にだれもいないのは知っていた。
「気になるのは分かるけど、ぼくと比べてもしょうがない」
――なんで、自分でそういうことが言えるのか。
あなたに追いつけないことくらい、とうの昔に知っている。
悔しさに顔を上げたかったけれど、抑えられていて動けなかった。
「それより」
一度切って、イトくんは続ける。
「ちゃんと気を抜くことを覚えないと、つぶれるよ」
その声は信じられないくらい優しく、言葉の方は痛いほどに鋭かった。
手の平で皺になるシーツを見下ろして、一滴だけ染みになった場所に気付いた。
しばらく見つめて、やっとそれが、自分の涙だと分かった。
慌てて手の甲で拭う。
本当のことを言われたくらいで、泣いていたら、しょうがない。
それは確かにここ数週間、泣きたいようなことばかり、起きていたけれど。
笑顔とはいわないまでも、せっかく泣かないでこられたのに。
泣いたからって何も解決しないと分かっていたから、頑張っているのに。
なぜか、言い聞かせれば言い聞かせるほど胸の中から悲しいものがせりあがってきた。
また、シーツに何滴か落ちて染みができた。
「………っ、」
いったんそうなると止まらなくて、私はそのまま下を向いて、ぼろぼろと泣いた。
久しぶりに涙を押さえることもせず、声だけは必死で抑えて、それでも漏れる嗚咽を飲み下しながら、幼馴染が傍らに座っている場所でずっとそうしていた。
こんなに泣くのは、小学校以来だった。
開いた窓から時折聞こえる車の音が、泣き声に何度か混ざった。
肌に触れる夜風は生温さを含んでひどく涼しい。
悲しかった。
いいようもなく悲しくて、悲しくて、止まらなかった。
心にたまった水の重みが次々と溢れ出ては手から腕に伝っていく。
人前で泣くのは何年ぶりだろう。
頭の上の重みはいつしか消えていたけれど、存在感だけはずっと消えずに隣にいた。