その39
楽な部屋着に着替え、制服を掛けた。
下着を洗濯したのは不審がられないだろうか。
火照った余韻を抱えながら腰のファスナーを締める。
学校の荷物から勉強道具と、二つ折りの大きな薄紙を引っ張り出して居間に出た。
イトくんから聞いてはいたけれど、模試の結果が返ってきていた。
進学校は全国模試が多くて、月に一回以上は受けているような気がする。
夏休み後半に受けた記述模試だ。
帰り際に受取って、そのまま良く見ずに仕舞っていたのを、テーブルに広げる。
一通り眺めて、頬杖をついた。
電灯がまぶしい。
深く息を漏らし、噛み締める。
C判定に本当にギリギリで引っ掛かっているくらいだけれど、充分だった。
これでもまだ合格圏内ではないけれど。
でもやっぱり、ずっとE判定だったから、気持ちがほっと緩んだ。
こんな風に成績がちゃんと上がるなんて思わなかった。
安心して泣きたくなる。
私は本当に、普通だけれど。
でも、きっと世間では「普通の人」が大半で、それでも皆生きている。
だから、ある程度のことは自分の無理でない範囲なら掴めるようにできているのだと思う。
それくらいのことは信じたい。
ソファに背中を倒して目を閉じた。
カーテンを閉めなくてはいけない。
幼馴染はいつごろ帰ってくるのだろう。
「橋田くん今日は来ないって」
電話を置いたお母さんが残念そうに呟いたので、夕食はお母さんと二人で食べた。
なんだか前もこんなことがあった気がする。
案の定ぶつぶつ言うお母さんを適度に受け流して、味噌汁を飲む。
「橋田くん誉めるの上手いから料理食べさせがいがあるのに。つまんないの」
「冷凍しておけば?」
「炊き立てがおいしいんだってば。分かってないわね」
叱られた。
今日の炊き込みご飯は確かに自信作だったのだろう。
お父さんが出張中で享はまだ帰ってこないから、残念度が二割り増しなのかもしれない。
「しかたないよ。文化祭前だし、勉強もあるし」
酢豚の鉢に箸を伸ばす。
まあ、私の結果は、明日だって教えることができる。
夏休み頃から勉強に本腰を入れはじめたせいで成績上位者の一番上に複数科目で載るようになっている、そんな人相手にたかが判定のどうこうを自慢したいわけでもない。
ただ、嬉しかったから。
……イトくんがどんな風に言ってくれるかが少し楽しみだっただけで。
先に帰ったりしなければよかったのだろうか。
それで顔を見辛くなるようなことも、したのだし。
名前まで呼ぶなんて馬鹿じゃないんだろうか。
「緋衣子、行儀悪いわよ」
無意識に箸で皿を掻いていた。
溜息をつく。
――身体が最近理性を無視している。
イトくんに頭を揺さぶられてからもう何ヶ月もそうだ。
これからもずっとそうだったりしたらどうしよう。
そんなことをぼんやり考えて、夕食をいつの間にか終えた。
お風呂から上がると十時過ぎだった。
珍しく享が勉強していた。
タオルを抱えて顔のしずくを拭き取りながら、傍に行って覗き見る。
理不尽に八つ当たられた。
どうやら明日突発的にテストということになったらしい。
邪魔するのも悪いので、部屋に戻ろうとして、足を止めた。
気にはしていないと思うけれど。
一人で帰ってしまったのを、一応謝ろうか。
できれば早めに報告したいこともあるし。
どちらかというとそちらが本題だった。
タオルをかけて時計を見て、まだなんとか迷惑でない時間帯だと判断した。
子機を手にとって短縮番号を押し、部屋のドアを閉める。
電話をするのなんて何年ぶりだろう。
これだけ距離が近いと、意外に電話なんて使わない。
鳴っては途切れる電子音を聞きながら、部屋を二三歩、ゆっくりと進む。
呼び出し六回で相手が出た。
『橋田ですけど』
「もしもし」
聞き慣れた声に目を伏せて、ベッドに腰掛ける。
少し沈黙があった。
深くて静かな響きが鼓膜を震わせる。
『ひーこ?』
「うん」
なんだか、自分の声がか細くて、弱る。
些細なことで電話まで掛けている自分が、急におかしい気がしてきた。
もう残っていないはずの蕩ける熱湯が身の内に沸きかけるのを、忘れようと受話器を握り直し、何を言いたかったのか記憶の細い糸を辿る。