その16
早朝から夕方まで、学校で勉強することにした。
行き帰りの時刻は比較的涼しくて、息抜きにちょうどいい。
図書室は冷房がついているからか、勉強しているのは私だけではない。
ちらほらと三年の校章をつけた制服が見える。
昨日の今日で異物感のある目をこすって、木々の葉が揺れるガラス窓を見た。
数ヶ月ぶりに、頭の風通しがとてもいい。
やっぱり、私は、普通だなあと思うのだけれど。
でも、イトくんに"実力がある"と誉められたのが正直とても嬉しかった。
本当はどうかなんて別としても、昨日の言葉があたたかい。
頑張ろう、と思った。
手の中の消しゴムを握って、化学の問題集に戻る。
背の高いあの人は、どの大学に行くんだろう。
夕暮れの坂道を上がると、遠目に古いマンションが二棟、並んでいるのが見える。
右が私の住む家で、左が今イトくんが一人で住んでいる家だ。
昔はそれなりに賑わっていたらしいニュータウンも、今ではすっかり寂れている。
私の志望校は隣県にある国立で、電車で通うには少し遠い。
もしも手が届いたなら、この小さな町を出ることになるんだろう。
見慣れた雲と空と、まだ点かない街灯を仰いで風を聴く。
夏服のスカートが、裾から舞い上がってまたふわりと膝に落ち着く。
なんだか通りが賑やかしいと思ったら、明日は夏祭りだった。
今年はうちにも町内会行事の担当順番が回ってきたらしく、お母さんは忙しそうだ。
どうせ、私は行かないけれども。
兄さん(弟もだ)は夏祭りが好きだった。
イトくんは人ごみと暑さがだめなので、雰囲気は好きでも行くのは苦手らしい。
それを毎年無理矢理引きずっていったのが兄さんで、それにまとわりついていくのが弟で、数年に一度、気が向いたときだけ着いていくのが私だった。
それも去年で終わってしまったかと思うと、少しだけ寂しい。
エレベーターなんて高級なものはないので、崩れかけたコンクリートの階段を四階まで上る。
今日はお母さんがパートで遅い。
多分、弟も部活なので誰もいないだろう。
幼馴染も、明後日まで帰ってこないのだし。
風が一瞬、涼しく感じた。
生温い温度だったはずなのに、心の中まで吹き通ったようだった。
緋色の刺繍糸を紐代わりにしている鍵を、差し込んで捻る。
誰もいない家は妙にがらんとして、慣れているはずなのにしばらく玄関でそのまま立っていた。
靴箱の上に、今年の祭り用うちわがいくつか重ねて放置してある。
明日になれば配られるはずのものだ。
――『ひーこの作るものは、おもしろいね』
昔イトくんに言われた。
あれも、とても嬉しい誉め言葉だった。
夏祭り用のうちわを、紙を破って骨だけにして、薄い別の紙を同じ形に切り抜く。
切り抜いたら好きな絵を描いて、のりで貼り付ければ自分だけのうちわになる。
何かで見て実践していたら、兄さんを放って先に帰ってきたイトくんが覗き込んで誉めてくれた。
(……誉め言葉だった、と思う)
小さなものを作ってみたり、手袋の端に小さく刺繍をしてみたり、そういうことが昔から少しだけ好きだ。
文化祭の(イトくんによれば脚本選定係に『ロミオとジュリエット』原理主義集団がいるそうで、それの変化形になるだろうということだ)小道具や小さな衣装を作るという役も、久しぶりで本当は嬉しい。
靴を脱ぎながら、懐かしくなる。
今日は灰と黒のスニーカーが玄関にも靴箱にもない。
多分、久しぶりのことで慣れていないだけだ。
明後日には、また声が聞けるのだし、そんなに寂しいわけではない。
誰も寝ていない居間を眺めて、荷物を置いてから夕暮れのベランダに出る。
空は薄い真珠に茜色がとけて広がり、取り込む予定の洗濯物は穏やかな風にはためいていた。
きっと元気でやっているのだろうし、多少具合が悪くても死ぬわけでもないし。
太陽を浴びてあたたかいバスタオルを手元に引きおろして、頬を当てて俯いた。