EXTRA / 2-(1)
郵便受けが、実家のマンションのそれによく似ていた。
元は赤かったのだろう。
メッキの剥げたところが錆びついて、褐色地図になっている。
変なところが、育った場所と同じだと思う。
ダイレクトメールのハガキを適当にチェックしつつ、手前の角部屋の鍵を幼馴染が開けるのを、斜め後ろから眺めていた。
雨樋の下が、なごり雪に濡れている。
鍵の回る微かな響きに、アパート前に連れてこられたときと同じ気持ちになった。
相変わらず緊張もしているけれど、それ以上に不思議だった。
イトくんは、もう隣のマンションに住んでいないのだという実感が湧いたのかもしれない。
鍵束に、実家の合鍵と自転車の鍵以外のものが増えている。
当たり前のように手紙がここに届いている。
私だって、あと一ヶ月もしないうちに同じ立場になるのだ。
いつかは当然のこととして慣れて、やがて大人になるのだろう。
玄関は電気がついていなくて暗かった。
それでも1Kの間取りだからか、窓の明かりが薄らと届いている。
うちに帰ってきて誰もいなかったときの暗さほどではないと思った。
「どうぞ。狭いけど」
「……お邪魔します」
ドアを押さえてくれたので、先に玄関へ足を踏み入れた。
当たり前かもしれないけれど、うちのマンションよりも玄関が狭い。
比較してばかりだ。
くだらないことに気づいて、少し肩の力を抜いた。
初めてここに来たはずなのに、ちゃんと橋田さんちの匂いがした。
……イトくんのにおいのようで、そのものとは少しだけ違う。
どうやって、家の香りは染みつくものなのだろう。
外ほどは冷たくないものの、それでもひんやり乾いた空気を呼吸して、改めてイトくんの部屋の匂いだ、と思った。
なんとなく心が落ちつく。
胸は騒ぐけれど、居心地のいいさやめきだった。
ショートブーツのジッパーを下ろしかけて、玄関横にコート掛けを見つけた。
靴は脱ぎかけのままでマフラーを半分解いて、ダッフルコートの留め具をかじかむ指で不器用に外す。
セーターが丸首の薄手なので、心なし肌寒かった。
玄関で、外気と混ざっているからなのか、吐く息も仄かに白い。
イトくんはあとから入ってきて鍵をかけ、蝶番で倒すタイプの簡易チェーンも丁寧に閉めた。
玄関が狭いので、距離が近い。
ドア向こうで、原付のエンジン音が近づいては遠ざかる。
分厚い扉に金属の先端が触れる微かな音に耳を奪われるのと、
間近で名前を呼ばれるのと、
――どちらが早かったのか、分からない。
背後から髪を梳かれて首だけ中途半端に振り返らされて頬を抑えられて、乾いた唇を一度舐められてからキスをされた。
すぐに離れてどちらともなく、ほうと息が漏れた。
久しぶりのイトくんの唇は冬のせいか、少しだけかさついている。
でも、はやくなる鼓動と一緒に呼吸の湿りが増して、繰り返し何度も触れるうちに柔らかくなって気にならなくなった。
肩を掴まれて、耳の裏に片手が回る。
求めていた感触に感情が溶けて煮られて、髪に分け入る指先がひんやりして、自然と開いた口の中に濡れたものが入ってきたので寒さも忘れた。
舌の先同士が触れ合うだけで、どちらともなく息が震えた。
背筋からぬるい痺れが広がって、感覚も記憶も、ことりことりと煮えていく。
幼馴染のダウンコートを、冷えて感覚の薄い指がうまく掴めなくて滑った。
喉の奥に伝う唾液が、もっと欲しくてそれでもなんとかすがりつく。
緩く抱き締められると、それだけで温水が揺らめいてお湯になった。
記憶が薄れていて、どのくらいそうしていたのか思い出せない。
背中に何かがあたって一瞬だけ、朦朧とした意識の霧が微かに晴れた。
……いつの間にか立ち位置が反対になっていた。
コートの分厚い生地越しに、背にしたドアノブが少し痛い。
それも、前髪が触れて吐息が混ざり、あまり気にしてもいられなくなる。
微かに離れた粘膜がまた深みで擦れ合う。
「………ん、っ」
唇の端から溢れた唾液の伝う箇所だけが、外気に熱を奪われる。
耳裏を抱えられて舌の周囲から唾液を貪られるたびにしがみつく指がじんとしたまま、小刻みな熱にひくひくと痙攣した。
「……っ、ふっ……、ぁっ」
そのまま前にもされたように、外しかけのマフラーを剥ぎ取られて首筋を一秒、吸われた。
確かめるように唇を落とされるだけだったのが、段々と扉の裏側にイトくんらしくない強い力で押しつけられて動きに遠慮がなくなった。
舌が辿って痕をつけるように吸いつかれて噛まれて、セーター越しに弄られる。
息が浅くなり、力が苦しくて泣き声も高くなる。
なのに感覚はひたすら甘くて、くすぐったいし涙が滲むし、全然やめてほしくない。
「や、あっ、……、と、っ……」
外に聞こえたらということにようやく気づいた。
途切れがちに縋って訴えようとしたけれど声が言葉にならなくて、途切れてしまって伝わらない。
仕方ないので首が反るまま、口を押さえた。
掠れた「ごめん」が遅ればせながら首元で返ってきたけれど、言葉だけの謝罪でやめてもくれない。
厚手のスカートの裾から腕が潜り込み、タイツ越しに膝より上を撫ぜられる。
掠めるだけで膝が震えた。
声を漏らせない代わりに別の何かが溢れてきて、懐かしいのに生まれて初めて知る濃さで、甘いものが背骨を煮溶かす。
もう何ヶ月も、遠慮がちに自分で触れるばかりだったそこに、馴染みぶかくていつも私の頭を撫でてくれて、受験中も何度も握って力を分けてくれた大切なひとの硬い指が押し込むように触れて、理性の淵のかけらが溶けた。
厚い布越しに押しつけながら往復する感触が自分のものとは全然違う。
ずっとこうして欲しかったのだと、今、知った。
声を出せないので心で何度も名前を呼んだ。
髪に顎を埋めて呼び返されて、通じたことに心が震える。
不意にスカートの奥で、敏感な硬い部分を押し込まれた。
手のひらの奥で吐息が乱れる。
幼馴染のものと混じり合ったばかりの唾液が口を押さえる手のひらを濡らしていく。
視界がぼやけた。
タイツの中が濡れてしまって気持ちが悪い。
おかしくなっているのに、もっとおかしくなるまで続けられて踵が浮いて、膝が崩れた。
立てなくなる前にしがみつくと声がもう抑えられなかった。
「………ぁ、っ、あっ。やーー…ぁ、あ、あ、ぁ……」
漏れ出て止まらない喘ぎがさすがに気になったのか、きつく頭を抱き寄せられる。
少し苦しい。
ゴムのふちからタイツと下着の間の空間の中へ無理やりに手が入ってくる。
薄布越しでも手が冷たい。
より近くなった刺激にもう耐えられず、からだの芯に火が灯ってぐずぐずと溢れた。
「……いい?」
聞かれなくても気持ちいいのに、なんでわざわざ聞くのだろう。
とは思うけれど、逆らう気力がもうなかった。
もう一度と尋ねてくる囁きに馬鹿みたいに頷く。
布の立てる水音に耳も塞げないまま、弱いところを擦られ続けられて細い糸がぷつりぷつりと、焼き切れた。
半端に脱げた靴のなかで足の甲が反っていく。
「ふぁ、ぅ……やー、………ぁ…んっ…ッ」
腰が蕩けきって、さっきから小刻みに震えている。
うだる意識に溺れて目の前の服を噛み締めて、身体中に満ちた甘さに耐えられないままただ泣き声を押し殺す。
そのまま、何十秒もかけて白熱して芯がふやけていくのに任せて、目を閉じた。
――そうして、
呼吸の仕方を忘れた代償に喘ぎながら酸素を求め、
力がすっかり抜けるまでの長い長い間を、抱きついたまま全身で受け止めていた。
痺れた腰が頼りなく落ちて、座り込みそうなところをドアと身体で挟まれるみたいにして支えられる。
「ぁ………ぁ、………、う」
「……った?」
耳元で尋ねられた内容が、去年の冬に教えてもらったことだと思い返して恥ずかしくなる。
受験勉強のことしか覚えていないと思っていたのにしっかり忘れず記憶している。
もう馬鹿じゃないんだろうかと思いながらまた頷くと、力の入らない身体を抱きしめられた。
また、耳に唇が落ちて、身体中の力が抜ける。
玄関は寒いと、荒い呼吸で肌がじわりと思い出す。
なんだか、はじめてこういうことをした時にも、玄関で同じようなことをしていたなぁと、呆れて細い背中に腕を回した。
どこかで、車の通り過ぎる音がする。
肺の奥が暑いせいだろうか。
玄関なのに、吐息が白い。