目次

しんさんとしの

本編

あの夏のこと、思い出した夏のこと。

番外編

何気ないただの日々。

『夏の日々』

『冬の日々』

『ままごと』-パラレル

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03 / 麦茶

「麦茶、さげるよ」
水滴が手の平に張りついて、冷たい。
二人分のグラスを握って腰をあげると、机につっ伏して眠っていたはずの幼馴染がだるそうに顔を動かして目を開けた。
「もう一杯」
「そろそろ帰らないの?」
そう言うと、また長い腕に顔を埋めて、黙ってしまった。
溜め息をついて部屋を出ようとすると、背中の真後ろで呼びとめられた。
振り返る前に、立ち上がった幼馴染が私の左手からグラスを取り上げる。
曖昧に笑って、私を見下ろしてきた。
「やっぱり帰るよ」
私はグラスを取り返した。
「だめよ」
「どうして?」
「もう一杯飲んだら、帰ってもいいけど」
「そう、じゃあもらうよ」
「悪いわね、志郎が相手してあげらんなくて」
弟は今年、大学受験である。
今も多分部屋にこもってそれなりにやるべきことでもやっているはずだ。
「今日は優しいね、志野」
両手のふさがった私の代わりに部屋の扉を開けて、背の高い幼馴染は私を眺める。
観察しているようなその視線は、なんというか、眺めるとしか形容できない。
「元気になりなさいね」
廊下を歩いて台所の暖簾をくぐり、麦茶を出して注ごうとしたら、彼もついてきていた。
「部屋に持ってくけど。ここで飲むの?」
「私は、ひとりでいつもここに逃げ出してしまって、なのにおまえにも志郎にも何も返せてはいないね」
「いきなり何を言いだすの」
清んだ麦茶のたっぷり入ったグラスを押しやって、冷蔵庫をまた開く。
冷えたゼリーが入っていたので麦茶瓶をしまうついでに二つ掴むと、扉を閉じた。
「ほら。食べなさい」
「ありがとう」
眩しそうな目で見られたので私は困った。
「あのね、辰さん」
「うん?」
「あなたは悪くない。」
くぐもった硝子音とともに、私のでない麦茶のグラスがテーブルに静かに置かれた。
「母は逃げていないんだよ」
「でも、あなたは悪くないの」
たたみかけると辰さんは黙った。
あまりに長いこと黙っていて、グラスをあけて、黙々とゼリーののったスプーンを口に運びながら、それでも黙っているので、私も何も言わないで黙っていた。
ゼリーも食べ終えると、幼馴染の青年は、やっと口をきいた。
「志野」
「何?」
「おまえの言葉と、志郎の存在は、昔から思っていたけれど、この人生で私に与えられた、本当に最高の、至上のものだと思っているよ」
「何を言ってるの、もっといいものはこの世にごまんとあるんです。期待しておいていいんじゃないの?」
「志野」
「何?」
「なんでもないよ。お茶、ごちそうさま」
「帰るの」
「帰れるよ」
ああ、もう大丈夫そうだなとなんとなく納得して、コップを片しながら私は手を振ったその背中が台所を出ていくのに黙って手を振り返した。

しんさんとしの
(3:麦茶)