目次

しんさんとしの

本編

あの夏のこと、思い出した夏のこと。

番外編

何気ないただの日々。

『夏の日々』

『冬の日々』

『ままごと』-パラレル

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20 / 辰さんと志野

日焼け止めでかすかに艶のある腕を翳して、バスから降りた。
昨日は雨の予報だったのに陽光が強い。
傘を無駄にしてしまった気がしてハンドバックを持ち変える。
気の抜けた音で去っていくバスの反対方向へ、名刺サイズのカードを眺めながら辿っていって横断歩道で信号待ちをした。
大学から二駅離れた住宅街と駅への道の川沿いに、コーヒー店を探して歩いていく。
何度か角を曲がり返して、奥まったスナックみたいな雰囲気の場所に、静かな喫茶店があるのをようやく見つける。
梢では蝉とか虫とかがやかましくて冷房が恋しかったのもあって、小走りでまた道路を渡った。

「いらっしゃいませー、ませ…おお」
制服の田中葉子さんは少女のようでとても二十歳には見えなかった。
(浪人しているので、私よりひとつ上だったりするのである。)
妙な気恥ずかしさでカウンター席に案内されて、薄い煙草のにおいに膝をすり合わせた。
近所の主婦らしき人たちが窓際の席で子供の部活動の話をしている。
「いらっしゃいいらっしゃい。何がいい? こっそりだけど、ドリンクならサービスしていいって」
でもケーキもオススメだよ、と顔が近付いたままでにこにこと葉子さんは笑う。
屈託がなくてとても気持ちがいい子だなぁと嬉しかった。
冷房の風に汗ばんだ腕からじわり浸されていく。
「じゃあ、チーズケーキのセット」
「うい、紅茶はサービス」
メニューを手際よく下げて、狭い店内でも全くぶつからずにカウンタを回り込んでいく。
普段ショートパンツなのがエプロンとスカートなものだから新鮮だった。
私も偶には、イメージチェンジというか、違う服でも着てみたら面白いだろうか。
辰さんが煩そうだ。
辺りを見回す。
コーヒーのにおいがしていた。
ケーキといえばで紅茶を頼んでしまったのだけれども、次回はコーヒーにしようかと思う。
照明は薄暗くて、本を読むような感じではなかった。
夏に参っているのか、明るさが差し込む小窓の外際では鉢植えの緑も頭を垂れていた。
ピアノのクラシックが流れていて、曲名を思い出す。
お冷の氷を揺らしてまたコースターに置いた。
力を抜くと、お店の主人らしいきれいな女の人が葉子さんとにこにこと会話をしてこちらをふと振り向いたのが見えた。
頭を下げる。

葉子さんが接客に立つ以外はカウンタに座って色々と話をしてくれた。
ここのバイトも高校からで長いんだ、とか、お店をやっている明菜さんに憧れているの、とか、課題の何から手をつけていいのか全然分からないんだ、とか。
時折カウンタの奥でコーヒーを入れてパンを切る「明菜さん」を私は見た。
なぜだか分からないけれども、幼馴染に似ているように思った。
ほんとうになぜだか分からないし、顔が似ているとかそういうことではなかったのだけれども。
チーズケーキはおいしかった。
学生の夏休みは長い。
外に出ると空気が湿ってぽつりとコンクリートが色を染めていた。
先ほどから流れていた雨だれの前奏曲を、耳がおぼえている。
「また来るね」
「来て来て」
「ごちそうさま」
折りたたみ傘を引っ張り、湿りの濃くなる川沿いをバス停まで辿る。

川面に落ちていく雨で、半袖の涼しさを知った。

風はほとんどなかったけれど、辰さんは一年前の四十九日にも喪服を着ていた。
小雨だった。
私も彼も進学したばかりで、初めての長い休みに辰さんは長いこと家を留守にした。
辰さんの叔父さんが、その夏に亡くなったからだった。
「うん。傷心旅行みたいなものだよ」
帰ってきて聞きもしないのに辰さんは私の部屋でかき氷を食べながら旅の話をぽつぽつとした。

家の近くでバスから降りると小雨は小休止していて商店街の水たまりは広がってゆらゆらしていた。
懐かしい通りを歩く。
いつかこのあたりのお祭りで、弟と私までなぜか一緒に龍次叔父さんにくじ引きをおごってもらった。
それからこの端にある神社の屋台でたくさんの笑いがあったのだ。
まだ日が落ちない明るさなので懐かしい鳥居の方にサンダルを向ける。
また雨が細々と空を切っていた。
「あれ」
枝葉の薄明かりと湿る蜩に降られて、辰さんが歩いてくるところだった。
まあ、行動圏内なのだから会って不思議なこともないのだ。
「辰さん」
「何だ。珍しいな」
背の高い幼馴染は表情を動かさず呟いた。
そして歩きながら目元だけで笑った。
前髪と靴が濡れて影になっている。
「傘くらい差したら?」
「降られたんだよ。ああ、折角だから相合傘しようか」
「ばかじゃないの」
何を心にもないことを言うのかこの人は。
呆れて、特に用事があったわけでもないので、なんとなく一緒に境内を引き返す。
「冷たいな。せめてコンビニまで。傘買うから」
「はいはい」
仕方なく、角を曲がってすぐのコンビ二まで入れてあげることにする。
背の高い彼が代わりに紺色の持ち手を掲げた。
相変わらずの慣れた空気を感じながら雨のコンクリートをぱしゃりと踏みていく。
商店街の寂れたのを眺めていた。
昔通った文房具店が来月で閉店だ。
「寂しいね」
辰さんに言うと彼は瞬きをした。
生温い筈の夏風は水気を帯びて肌を冷やし、八月の通学路を通り抜けていく。

小学校のいつ頃からだったろうか。
一緒に登校するのをやめたのは、そして友達と待ち合わせしていくようになったのは。

私は辰さんを、男性として愛してはいないけれども。
私達はもう既に少年と少女ではなかった。
体格の違い、本能の違い、性別というその違いは思っているより遥かに簡単に人と人とを引き離していく。
二十歳を控えたこの頃では、逆にそれが、男女を引き寄せる理由だというのも知っている。
なのに私達が一緒にいて何もないのはきっと「幼馴染だから」というだけではないだろう。

――そしてきっと、周囲には上手く伝えられないでいるけれど、「友達」という言葉でもけしてないのだ。
私にとって辰さんは、辰さんでしかない。
辰さんにとって私が、「志野」でしかないように。

薄い曇り空に切れ間を見つけて、私は薄寒さの中にたったひとつ体温を感じる腕から、空へと顔をうつした。
前髪がほんの僅か湿って線のように降る雨が見渡せる。
傘を持つ幼馴染は長袖の上着を着ていた。
その向こうにコンビニの明かりはすこしばかり白すぎて、サンダルから入る水は足裏を妙に滑りやすくさせていた。

しんさんとしの
(20:辰さんと志野)