08 / 過去~一年前
辰さんが喪服を着ていた。
お母さんが珍しく休みを取ったので、買い物もせずにそのまま帰ってきた。
「辰君、帰ってきてるわよ」
玄関脇の物入れに畳んだタオルを仕舞いながら言う。
お母さんの白髪が増えているなと思う。
玄関に靴がなかったのでお父さんと志郎はまだ帰ってきていないのは分かったけれど、幼馴染がいつも履いている白と臙脂のスニーカーもなかった。
それを思い出して、お母さんの言葉に私は首を傾げる。
今日は縁側から入ったのだろうか。
そんなことを考えながらサンダルを脱いで帽子を掛ける。
とたとたと廊下を進んで居間を覗くと、夏なのに暑そうな黒い長袖が見えた。
「――辰さん?」
「ああ、お帰り」
団扇を振って笑う彼の髪は後ろでひとつに縛られている。
喪服は一応正装ではないのか。
いいんだろうか。
「どうしたの、その格好」
「ああ、」
辰さんは、スーツの中の黒いネクタイに軽く触れて、僅かに口の端をあげた。
睫毛がすっと翳って、ああ嫌なことがあったのかなとなんとなく、思う。
「母方じゃない方で葬式がね。あってね。連絡取ってくれてた最後の親戚だったから、行ってきた」
聞いたのは髪のことだったのだけれど、混ぜ返すほどでもなかった。
辰さんはソファにもたれて顔を崩すと、天井を仰いで、大きく息をついた。
「……ああいう場は疲れる」
「辰さんはそういう気配り、得意だったよね」
私がこっちに越してきた小学生の頃から彼は変わっていたけれど、昔から、人と人との諍いを見極めて交渉するのが本当に上手かった。
ビジネス向きの人なのだろう。
もっとも、あの頃は辰さんはどちらかというと志郎と仲が良かったので、私は辰さんのその資質が中学になってからどうなったのか、多分ほとんど知らない。
いつの間にかこの人と遊ばなくなって、気が付いたら二人とももうすぐ大人で、どうしてこんなにまた、自然に話すようになったのだろう?
欠伸をして胡坐をかいている同い年の青年を、しばらく黙って眺めてみる。
生温い風が吹いて、小さく風鈴が鳴った。
「その格好、暑くない?」
「暑い。暑い。ものすごーく暑い」
「二人とも、買い物行くけどアイスほしい?」
唐突にお母さんが廊下から顔を出した。
「あ、どうも。すみません」
辰さんが頭を下げて微笑む。
「私、果物っぽいのがいい。」
「分からないわよ、それだけだと。安いのじゃなきゃやーよ」
「じゃあ何でもいいよ」
眉をひそめて言うと、辰さんが後ろで小さく笑った。
ちょっと腹が立ったので、振り返って睨み付ける。
お母さんは愉快そうな目で手を振って顔を引っ込めた。
「鍵開けとくから。辰君、構わないからゆっくりしていってね」
お母さんは辰さんに優しい。
昔から優しかった。
いろいろと、私や志郎よりも知っているのだろうか。
「……ねぇ、暑いんなら上脱げば?」
「うわあ志野さんたら大胆」
「辰さん、テンションが変。」
反応に困って溜息をつくと、幼馴染がほんの少し疲れた顔をして、弱弱しく笑った。
「ああごめん……疲れてるんだ」
辰さんの膝の辺りで組まれた指先がずれると、喪服の袖口が擦れ合って黒く溶ける。
「お疲れさま」
「ありがとう」
辰さんはゆっくりと頷いて、しばらく黙り込んだ。
開けっ放しの網戸から風が吹き込んで、くぐもった鈴音をひとつふたつ空に聞かせる。
青空は少なく、夕立が降りそうに空は灰色で覆われかけていた。
辰さんが顔を上げた。
「志野、人はどうしてあんなに突然死ぬのだろう」
ぽつりと呟く声が沈んでいた。
「何が起こるか分からないものだね。交通事故が、身近で起こるなんて初めてだ」
私は黙って聞いていた。
辰さんの視線は宙で留まって、少し空ろだった。
「志野」
「何?」
「疲れた。暑い。死にそう」
「……」
「志野のとこは、おばさんもおじさんも優しいな。感謝してる」
「うん、伝えておく」
「ありがとう」
もたれていた背を起こして、髪をかきあげる仕草がとても男の人だなあと思った。
「言えなくなることもあるからね。参ってしまうね。ああ……今日は、本当に疲れた……」
手に持った団扇に目を落として、独り言のように幼馴染は言う。
夕立が降りそうだった。
お母さんは、傘を持って出かけたんだろうか。
生きているということは、本当に不思議だ。
(8:一年前)