25 / ミチワカレ
晴れ渡ると空のずいぶん高いことに気がついた。
今でも暑いのに蝉は鳴くのに、空だけが秋なのだと思った。
居間の網戸を引いて風を入れたところに、たてすを越えて聴き知った声がする。
顔をあげれば柔らかな髪が夜明けに薄く透けていた。
生垣の向こうの朝焼けを背に、長身の幼馴染が手をあげた。
このところ何かしらを言いかけては眠り、ぼんやりしていた辰さんの様子はずっとおかしかった。
だからおそらくそういう話があるのだろうとは予感していたのだった。
縁側に二人分の麦茶のグラスを置き、私はしばらくそれを聴いてから、彼を眺めた。
「おめでと。」
「ありがとう」
辰さんは笑ったつもりのようだった。
蝉が朝も早いのに、ジイジイとうるさいくらいに鳴いている。
涼しさの中に暑さを予感させる朝風は遠く、雲を通過して吹き下りる。
風鈴が、リンと鳴った。
笑っていない影を見て、しかたがないなと溜息の奥で微笑う。
「辰さん。あのね」
「うん?」
「就職が決まったら、『おめでとう』というものよ。普通は」
また、りりんと澄んだ音が頭上で揺れる。
雀が空を渡って楽しそうに囀った。
アルバイト先で正社員登用の話を受けて契約し、秋から社員寮に移るのだと辰さんは言う。
今年が専門学校の二年目なので就職するのは分かっていたけれど、思っていたよりも早い気はした。
学校はどうするのだろうか。
まあ辰さんなら何とかするとは思うけれど。
辰さんは、僅かに瞬きをしてから朝日の照らす芝を見ていた。
「……そうか」
「そうでしょ」
相手はまた、笑おうとしてやり方を忘れたかのように、口元を緩めた。
そうして額を覆い、深く低く詰めていた息をもらした。
木々が囁いて揺れる。
目に残る空の青と梢の葉影はいつしか通り過ぎていくものだ。
九月になったばかりというのに暑さは変わらない。
大きな男の手が、私の手首を掴んだ。
……掴んだというより、握られたのかもしれなかった。
「なに」
「志野。私は」
名を呼びながら力が籠もる指先は熱く、汗ばんでいた。
私は手の甲を眺めて、それから辰さんを見た。
「もっと考えて受けるべきだったのかもしれない。ただ逃げ出したかっただけなのかもしれないと思う。あの家はもうどうしたって無理とあきらめて、一人で逃げられるのが嬉しいだけなのかもしれないんだ」
「……うん」
辰さんはおそらく何らかの決意を持ってその心うちを告げたろう。
そうだとしても、私にはどうでもよいことだった。
この人はいつだって、三件隣の向かいの家なんかよりもっと、ちゃんと遠いところまで。
自分の決意一つで逃げてよいのだと思っていた。
身も心も張りつめながら、机に伏して眠るためだけに笑いながらやってくる辰さんを幼いころから知っていた。
残暑の朝風は秋の匂いを含みながらも生温かく肌に触れては草を揺らして地に滲みる。
ああ、多分これが最後の夏だ。
触れる手の体温だけが名残りの記憶になるのだろう。
それさえも、やはり時が過ぎれば消えていくのだろうけれど。
「辰さんが決めたんなら、気にすることないと思うけど」
日射しは徐々に朝から午前中のそれになっていき、枝葉に揺られて蝉がしきりに降っていた。
「志野がそう言うなら気にしないことにする」
「そのうち、それだけじゃなくなると思う」
「そうかもしれないな」
辰さんは自分に言い聞かせるようにそっと呟いて、目を細めた。
私は視線で応えた。
台所から、起きてきたらしくお母さんが呼んでいる。
朝ごはんの手伝いに行かなければいけない。
「というわけで放して」
掴まれた手首を掲げると、幼馴染が聞こえないふりで意地悪な顔をした。
「初任給が入ったら志野にも何か送ってあげようか。指輪とか」
「いらない。意味分からない」
「それは残念、」
答えが分かっている質問を分かっていてするのだからわけがわからない。
呆れる私に幼馴染は愉快そうに笑って、指の力を緩めた。
私は立ち上がりがてら、手を離してもう一度おめでとうと伝えた。
辰さんは、あの頃の面影を残して名残惜しそうに頷いた。
裸足の縁側で振り返れば、空は夏などどこにもないかのように、ただ澄んで高い。
初めて辰さんと会ったのはこの街に引っ越してきた小学校一年の夏休みで、彼がうちに来るようになったのは夏の終わりの頃だった。
志郎は幼稚園児だったから、そのあたりの事情は憶えてすらもいないだろう。
あれから干支もひとめぐりし、高校生になった弟は大学受験の夏期講習に行っていた。
私は地元の大学だけれど、研究が面白くなればこの先院まで進むかもしれない。
――辰さんはもう社会に出てしまうという。
母は私を待たずに朝ごはんを作ってくれていた。
台所に吹き込む風は気の早い虫の声をのせて、秋茄子と油の香ばしい匂いがする。
小窓から覗く空が眩しい。
いつしか八月は去り、夏の終わりが始まっていた。
(25:ミチワカレ)