目次

しんさんとしの

本編

あの夏のこと、思い出した夏のこと。

番外編

何気ないただの日々。

『夏の日々』

『冬の日々』

『ままごと』-パラレル

作品ページへ戻る

30 / 一生分のお礼

秋の長雨というには生温かく、それでも季節がもう夏ではありえなかった。
街路樹の緑は力強さを失って、時折トンボが飛んでいる。
「いいんだ。取るべき資格はもう取っているしね。あとは自学自習で何とでもなると思うよ」
ソファに荷物を重ね寄りかかり、中から出した文庫本を目的もなくめくっている。
夏休み中に退学届けを出して社員寮への手続きを済ませたのだと言っていた。
弟は高校が始まり、母も父も当たり前のように仕事だった。
私だけが暇な状態で、これは葉子さんを見習ってアルバイトでもするべきなのだろうか。などとぼんやり思う。
辰さんは来週にはもう社会人なのだった。
「会社、どのあたりなんだっけ」
「秘密だよ。志野には秘密」
「ふうん」
別に知らなくとも構わなかった。
何か大きな用事でもなければ行くこともないだろうし、志郎がどうせ行き先を聞いているのだから必要になったら志郎を経由すればよいのだ。
「ふうんって、それだけかい。つまらないな」
「そう?」
「そうだよ」
「そうかな」
扇風機はもう用を成さず、ぱらつく雨音の中で仕舞われるのを待っている。
窓の隙間から肌に涼しい風が吹いた。
肌はこれだけで夏が去ったことを知る。
「挨拶は、また、改めて来るよ。おじさんとおばさんにはきちんと挨拶をしていきたかったんだけれどね」
幼馴染の青年は部屋を眺めていた。
焼き付けるように眺めていた。
多分、改めて来る挨拶のとき、私は留守にしているだろう。 
ただの予想でしかないけれど、このひとはそういうときに限ってやってくるような気がした。
空は澄んだ青さをかすかに見せて、太陽も部屋を照らしていたのに、風にはほんのり湿り気が残っていた。
狐の嫁入りというのだろうか。
ソファが軋んだ。
「もう行くの?」
「あまり遅くになってからでは門も閉まってしまうからね。ひとまずはこのまま行くよ」
つまり、私とはここでお別れだった。
十何年も近くで過ごして、ある日を境にアルバムからこの人の写真が消えているような、そんな区切れだったけれど、ある意味では似つかわしかった。
文庫本を仕舞いこんで荷物を抱えた辰さんを見上げて、私も立つ。
「駅まで送りましょうか」
「志野が?」
「なんでそんなに驚くのよ」
肩をすくめると辰さんはすまなそうに笑った。
それから、左手に持ちかけていた荷物をいったん下ろして部屋と庭を見渡した。
蝉の声ははるか遠く、近いものは夕暮れ色の虫の音だけだった。
まだ五時過ぎなのに空は翳り始めて、日に日に入り日は前に倒れる。
部屋の明かりも落ちかけて、電気をつけたほうが良いくらいになっていた。
「前にも言ったことがあったかもしれないね。でもまた言おうか。言ってしまおう」
私は辰さんを見た。
辰さんは台所に続く廊下を見ていた。
「私は、この家があったから生きてこれたと思う。なくてはならない場所だったよ」
「…… うん」
それは知っていた。
親も弟も、私も辰さん本人もここが彼の心を救うためにあったことは知っていた。
一番それを気にしていなかったのが私で、気にしていたのは辰さんだった。
そう思うと少しおかしかった。
「よかったじゃない。生きてこれて」
うん、と彼が答える。
「きっとね、道はいくらも外れることができたんだ。でも道の脇ばかりが逃げる場所ではないのだと、教えてもらった。耐えられないまま放り出したら、分からなかった大切なことを教えてもらったよ。志野のおかげで、ご飯がおいしいことも忘れずいられたしね」
辰さんは笑ったけれども、冗談ではないことくらい、かつて見た光景を思い出せば、分かることだった。
小学校の頃、途中まで辰さんは学校に行きたがらなかったので、私が誘いに行っていた。
辰さんのうちの玄関からは台所が見えた。
あの頃、私は多くの残酷なことを言ったかもしれない。と思う。
それでも辰さんは叔父さんに連れられてうちに来るようになり、両親はそれを受け入れた。
辰さんは志郎を本当の弟のように連れ歩き、私は弟離れができて寂しくもほっとした。
やがて、幼馴染の少年が学校に行くことをむしろ望むようになって、次第にうちですごす時間が長くなり、自宅に寝るとき以外は帰らなくなった頃には、私はあの家の光景を意識的に記憶の奥底に封じていた。
辰さんがうちで過ごすのに不要な光景だったのだ。
「おまえには一生かかっても礼を言い切れないね」
「別にいらないけど」
「相変わらず冷たいな」
幼馴染が、くっ。と笑う。
「でもね。そういうおまえのことが、ずっと好きだよ」
「それも何度も聞いたし、知ってるから」
わざわざ言葉にするのは最後だからなのだろう。
余裕げな辰さんの視線を受け止めて、暫くそのままでいた。
横からの薄い光は涼しさをはらみカーテンの裾を遊ばせていた。
窓を揺らす風が弱い。
雨はいつしかあがっていた。
夕暮れが曇り空に茜を染めて、広がる雲に擦り切れるようなかすかな影しか見えなかった。
太陽はまだ沈む様子を見せない五時過ぎ、それでも夏至を一年の四分の一以上過ぎたのだ。
辰さんが足をとめた。
玄関のたたきで靴を履きかけ、また止まり、振り返った。
「やっぱり、駅までは送らないでいいよ。いつものように送り出してくれよ」
「うん」
素直に頷いた。
同じく玄関先に出て、サンダルのつま先で床を削る。
私もこれを言うべきなのか、ずっと迷っていた。
最後なのだから言うべきだろう。
「あのね、辰さん」
敷居を越えると湿った風が髪をなぶった。
耳元で抑えて視線を上げる。
「分かってると思うけど、辰さんは私から離れなくちゃ、だめなのよ」
幼馴染はこちらを見なかった。
高い背中の右前方から、西日は僅かに足元を照らした。
庭先で蝉は名残を惜しむように、短い命を鳴き続ける。
「そうだね。志野がいると甘えてしまうからね」
「うん」
「この夏はあっという間だった」
つぶやきに混じれて、土の匂いが仄かにした。
いってきます。と何度彼が言うのを聞いたろう。
彼が生まれたのではないこの家の玄関で。
もう聞くことはないのだとようやくに知った。
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
辰さんが手をあげた。
彼はもう一度立ち止まり、門に手をかけたままで振り返って笑った。
温かい声だった。
「おまえといられて幸せだったよ」
要らないと言ったのに、彼は結局、そんな感謝ばかりを伝えて手を振った。
風鈴は遠く鳴り、玄関から仰ぐ空は刻一刻と薄い紫に変わっていく。

――これが実質上の最後だった。

もう二度と会うことがなかったわけではないけれど、これがひとつの区切りだった。
私と辰さんの共有した時間の、涼しげでしめやかな、終わりの夏の日だった。
私は暫く見送ってから、夕飯の時間がまもなくだったので改めて玄関を閉め、買い物に行った。
二匹のトンボが番いながらコスモスが揺れる脇の茂みを滑り行く。
夏の名残の蝉の音は、かなかなかなと遠慮がちに商店街を漂っていた。

しんさんとしの
(30 :一生分のお礼)