夕暮れだった。
おかずの香りが台所から漂ってきて、玄関で彼はしばらく佇んだ。
引き戸をガラガラと閉じ、スニーカーを蹴り飛ばして脱ぐ。
そのまま廊下の奥まで歩いて、のれんをかきのけた。
冷蔵庫の扉の陰から、幼馴染が顔を出した。
「辰さん。おかえりなさい」
彼はその言葉に、聞き入ってから、笑った。
「懐かしいな。ピーマンの肉詰め?」
「志郎が作れってうるさいんだもの」
「あいつも自分で作ればいいのにな」
目の前の彼女に似た幼友達を思い起こして、肩を竦める。
まあ、自分で作る料理というのはまた別問題なのだろうが。
志野が軽く笑って麦茶を入れ、テーブルに置いた。
乾いた音に、氷が揺れる。
「飲むでしょう」
「ありがとう」
「手伝ってくれるんなら、手洗ってからにしてね」
「手伝ったほうがいいかい」
「替わってくれれば嬉しいけど?」
たいして期待もしてないように落ち着いた声が呟き、味噌汁らしき鍋の蓋をあけて味見をしはじめた。
遅くに帰る両親の分と、彼女と弟の分とに、自分の分までもを加えた分量の味噌汁。
台所の窓から、遠く夏の夕焼けが見えた。
木の床に差込み彼女の足首を淡く照らす薄橙の陽光が、瞳孔をまぶしく射る。
「志野」
「何」
「いろいろと、世話になるね。おまえたちには」
「そうね。じゃあその代わりお風呂の掃除と洗濯物、やってくれる?」
薄茶のくせっ毛を揺らして、志野が味見の皿から口を僅かに離して何気なく答えた。
彼は目の端をかすかに緩めて、頷いた。
謝るよりも、この世にあってはいけないんじゃないかというくらいの居場所に対して、たった一回の、空を背負うくらいのありがとうを。
声には出さずに。
(020 :百万回謝るだけでも)