06 / 長袖の日
額の汗を手の甲で拭う人の上着は、この暑いのに薄黄緑の長袖シャツだった。
器用な手つきで剥いた(でも買ってきて冷蔵庫に入れたのはうちの母だ)豊水の最後の一片に伸ばされかけた長い腕を遮って、弟が日焼けした腕で横取りする。
「あっ」
早い者勝ちは暗黙のルールなので、私達の幼馴染は小さく批難の声をあげただけで、冷えた梨を美味しそうにいただく弟を正面から責める事はしなかった。
かわりに弟の麦茶のグラスを引ったくって、半分以上一気に飲みほしてしまう。
「あーーっ!」
弟の声に不敵な笑みを返すと、辰さんは口を袖でぬぐった。
自分のグラスはもうすっかり空なので、さっきから志郎の分を狙っていたのだろう。
長袖が本当に暑そうだ。
肌はじっとり汗ばんでいて、時折窓から入る日光にきらめきを返している。
責める弟の視線を逃れるように私の顔を見てきたので、両方の焦点がはたとかち合った。
私が目を逸らさないでいると、こちらを一瞬瞬きとともに見つめて、向こうの視線が不覚、と無言の空気を放つ。
溜め息とともに大げさなジェスチャーをして、幼馴染は肩を竦めた。
「ああしまった、志野のを飲めば良かった。そうすれば間接」
「……ばかじゃないの」
最後まで言わせるつもりはなかったので、長いこと中身の満たされていなかった辰さんのコップを取り上げて私は立ち上がった。
そのまま廊下に出て台所に向かうと、実に珍しい事に辰さんがなぜか居間から顔を出して私を呼びとめると、こちらにやってきた。
二人のときはともかく、三人いればこういうときは大抵志郎とだべっているので、どうしたのかと振り返る。
「何?」
「すまない、志野、怒ったかい」
「怒らないわよ、あれしきで。どうしたの弱気になって」
驚いた私に、同じように驚きの表情を返して、辰さんは照れ隠しなのか頭を掻いた。
「そうか、残念。だったらやはり次からは志野のコップで飲もう」
「やめてね。」
きっぱりといって、私は辰さんの左腕に視線を向けた。
「辰さん、どうして長袖なの」
辰さんが目を細めた。
「どうしてだろうね?」
「やられたの?」
「あの人に、そんな度胸はないよ」
この人は、他人を呼ぶみたいに「あの人」と呼ぶ、自分のお父さんを。
「あの人はね、志野、知っていると思うけれど、直接にはほとんど何もしない。少なくとも力負けする今の私には、間違っても何もしてこないよ。」
自信有りげで結構ではないか。
コップを側にあった電話の棚の上に置いて、私は幼馴染の左腕を掴んで、見上げた。
「自分でやったの」
触れると顔をしかめたので、傷跡の位置はすぐ分かった。
「辰さん」
答えてくれないと、とても怖い。
辰さんは、右の指先で私の指先を傷跡ごと上から包み、目を伏せた。
「志野は正しいから、怖いな」
「怖いのはこっちよ」
「そう言ってくれる直接さが、時々、本当に怖いよ」
目をそっと閉じて、長い指が私の手の甲をなでていた。
そんなことまでしなければ保てない精神状況、この傷で保つ落ち着き、私はそんなものがどうしてもどうしても納得いかなくて、そのもの分かりの悪い自分にもとても腹が立った。
「ねえ」
声をかけると、やや落ち着いたように、辰さんの瞳が私の方へ下りてきた。
「ねえ、あんまり、こういうことしないでよ」
「うん」
「耐えろって、言ってるんじゃないからね」
「……ん、ありがとう、志野」
嬉しげに、今度はもう少し回復した笑顔で答えて、辰さんが私の手を握った。
それはいい。
それだけならよかった。
数分しても放さないので、私はだんだん疑いを抱き始めた。
途中から、単に握るのを楽しんでいるのではないか、この幼馴染は。
不審な視線を上に向けると、例によって心底満足そうな目で向こうがこっちを見下ろしていた。
「……あのね」
「放したくないなぁ」
「放しなさいよ」
「いやだよ」
睨んでいる私と笑みを浮かべた幼馴染の横を、空のコップと皿を持った志郎がすたすたと通り過ぎて台所の奥へと消えた。
「……」
「……」
二人でそれを見送って、それから、思わず私は辰さんと顔を見合わせてしまった。
(6:長袖の日)