09 / 雲と風の夏
		
			「姉さん、大学で彼氏とかいないの?」
			ソファーにランニングシャツで寝そべっていた志郎が突然そんなことを言った。
			アイス片手に聞いているあたり、さして深刻そうな問いでもなさそうだけれど、やはり少し意外だと思った。
			網戸から流れてくる風に風鈴が涼しい音を鳴らし、窓のすぐ前に腰を下ろしていた私の髪を軽くなぶる。
			「今はいないけど。なんで?」
			「……今はぁ?」
			素っ頓狂な声で返されてちょっとむっときた。
			「別にどーでもいいじゃない、そんなの。あんたに関係ないでしょ」
			「うん、まあ、そうだけど」
			それだけ言って、弟は溶けかけたアイスの側面をすくうようにして食べはじめた。
			私は夏祭りでもらった団扇をあおいで、弟を見る。
			すると向こうは思い出したかのように顔をあげて、また尋ねた。
			「っていうか彼氏、いたのかよ。」
			「……いたけど。昔ね、昔。すごい最初の方だけ」
			正直半分くらい忘れていたのでかなりどうでもいい。
			やはり、なんだか、「試しに付き合ってみる」というのは私に合わないんだろうと思う。
			付き合ってるうちに好きになれるのなら、とてもいいのだろうけれども、出来そうにないのだ。
			大体その「お試し」とやらも、数ヶ月もしないうちに相手が勝手に新しく好きな子を作ってあっさり別れたので、私としては試しにも何も、本当に良く分からないまま疲労だけが残って、それは勿論それなりに寂しいなとは思ったけれども、同時に心のどこかではほっとしてしまった。
			とにかく自分がそういう軽い感じに合わせられるほど器用じゃないということだけは良く分かったので、あれからは大人しくしている。
			ああ、高校時代のあの人は、良かったなあ。
			急に思い出して、溜め息をついた。
			思えばちゃんと恋をしたのは、あれが初めてだったろう。
			志郎は不思議と不意にそれを思い出したらしく、ぽそりと言った。
			「高校の時のあの人、今どうなってんの」
			「……さあ?」
			鋭いやつだなあ。
			団扇を床に置いて、はぐらかしがてら網戸を開けて庭に出る。
			あの日も、夏だった。
			父と姉妹を亡くして母方の実家へ戻った副部長からは、いつしか部全体に宛てたものよりはやや遅かったもののぷつりと連絡が途絶え、それ以来私は会ってもいないし、電話も通じないので声も聞いていない。
			忘れてはいないけれど、次に会えたとしても友達だろうな、と思う。
			なんとなく、そう思う。
			距離は多分問題ではなくて、きっと時間と、偶然と、支えきれない重いものと。
			大陸すらも引き離すその巨大な力が働いたんだと、そういうことではないのかな――そう、思う。
			人を一人亡くすだけでも辛いのに、その何倍の痛みを味わったのだろう、私が分け合わなかったそのもの。
			16歳の少女は、健気に支えてあげるべきだったのかもしれないけれど。
			そんなこと思いもつかないほど心に余裕のなかったあの日の私自身を今の私が悔やむ必要は、きっともうない。
			懐かしい校庭の砂を含んだ夏風を頬に感じた気がして、青の広がる空を仰ぐ。
			太陽の眩さが白すぎて、ゆっくりと汗ばんだ手をかざした。
			悔やんでいなくとも、未練がなくとも、その代わりに、あの夏の断片すらもが、ふと思い出すたびとても私を切なくさせる。
			熱い日差しに息を漏らして、縁側の下で爪先を冷やした。
			庭の垣根の向こうから聞き慣れた声がして、それは私の名を呼んだ。
			「志野」
			「……辰さん。どしたの?」
			「バイトの帰り」
			笑って手を振って、帰っていく辰さんの背中をぼんやりと追いながら、青空をゆったり動く雲をその先に見る。
			「上がっていけばいいのに」
			呟いて、自分でもその言葉の意外さにちょっと驚きながら、背中が三つ隣の向かいの家に入るまで、私は幼馴染をぼんやりと眺めていた。
			また、夏が風と一緒に過ぎて行く。
		
		
		
		
		
(9:雲と風の夏)